2012年12月29日土曜日

勉強法の常識を疑うその7~現代文・国語の常識と真実3


国語(現代文)の締めくくりに、いただいたお言葉を書かせてもらいます。

以前、“勉強法の真実ブログ”を読まれた方からメールで学習相談を受けたことがあった。
その方に、この記事を書くにあたって引用させていただきたい旨と、その後のお子様の様子を伺いたいと思って連絡させていただいたところ、引用は快く許していただけることと、お子様は意欲的に勉強中だとのお返事をいただいた。
たいへん恐縮です。

(メール相談をいただいた方の文章。途中省略があります)
「今まで聞いたこともない、はじめてのことばかりでビックリしています。
ブログの内容を読んでいて、とても共感することが多かったので思い切ってご相談させていただきましたが、知らない娘のことをよく考えて下さり、読んでいて納得することばかりです。本当にありがとうございます。」
(中略)
「娘に先生のメールの内容を伝えたところ、目をキラキラさせて…(中略)
国語のテクニックについては、まったく塾では教えてもらったことはないそうです。
文章の内容説明をしてくだり、『問題の答えは、この部分の内容からになりますね。』という感じのようです。だから、その時は『そうだよな、確かにそうだよな。』と納得して終了。
そんな感じで帰ってくるようです。
でも、また、問題を解くと、なんだか間違っている、どうして国語ができないんだろう?
という繰り返しです。
『テクニックがあるの?』という感じでした。
その後、娘は塾で○○の過去問を2回解いたのですが、小説と論説文の選択問題が全部正解していたり…(中略)、本人なりに、先生からのアドバイスを刺激に、設問や言葉に意識をしながら問題を解いていったそうです。すごく喜んでいました。
国語の成績が安定するかどうか、まだ、わかりませんが
「全然ダメじゃないんだ。」と前向きになっていました。」


この方とのメールで一番嬉しかった言葉は、何と言っても最後の1行だ。
一人の子どもが、「全然ダメじゃないんだ」と前向きになった。それだけでいい。私がほんの少し役に立った。嬉しい。

現代文のテクニックを身に付けるメリットは、点数を上げるためだけではないのだ。
テクニックを身に付けることによって、苦手だと、できないと思っていた現代文に希望を持つことができ、他の科目に時間的・精神的に良い影響が出るのだ。
ド○ゴン桜でもそう。115時間×300日の勉強を支えるもの。マンガの話だが、もしそれがあるとしたら、それは前向きさ、ひたむきさに他ならない。
その精神を支えるものは、「やればできるようになる。自分にもできる。絶対に合格したい」と思い続けることだ。
そうでなければ、受験は絶対に上手くいかない。ほんの少しでも「どうせ、きっと、第一志望には受からないんだろうな」なんて思っていると、本当に受からない。
そんな受験は、本人の将来にとっても周囲にとっても不幸な受験となる。
逆に、最後まで自分を信じ、精一杯やったのであれば、たとえ結果が×であっても、得るものは必ずある。
ただ、それは全力で頑張ったことのある人にしか味わえない感覚なのだろうなあ。
その感覚を、私はできればすべての受験生に味わってほしいと願っている。
不完全燃焼や後悔で終わらないために。自分に嘘をつかないでいるために。
テクニックを身に付けよう。

おわり






ご意見・ご連絡は・・・
yokohamatotal@gmail.com
へおねがいします。


2012年12月26日水曜日

勉強法の常識を疑うその6~現代文・国語の常識と真実2



ゴン桜より

このブログではド○ゴン桜の話題も多い。
これは、漫画・ドゴン桜が私的に名著であると思うがゆえんであります。
塾でドゴン桜の話をすると、知っている子はドラマで見た(DVDで見たのか?)という子だけであり、マンガで読んだという子はいない。
私は逆にドラマは見ていないが、マンガとは異なる印象を与えるものではないかと想像している。
ドラマって、原作と違うことよくあるしね。

マンガ版ドゴン桜の優れているところは、まず高校生の心理をつかんでいる点だと思う。
次いで、特別講師が実在の人物をモデルにしている点だ。
ところが、ほとんどの子の感想は、「あんなの不可能だ」である。
「ギャグでしょ」と言う子もいる。
誰も登場人物の心理には注目していない。触れてもいない。
ドラマが原作と異なっているのか、私の感想とはえらい違いなので、今度マンガを塾に持っていて読ませようかとも思う。

さて、マンガ版においてもやはりテクニック面や東大合格という結果が強調されている感もあるが、ベテラン講師にとってはそれらはとくに目新しいものではないだろう。参考になることもあるが。
で、先の2点に加え、個人的なドゴン桜の特筆すべき点は、
1、きれいごとが排除されている点
2、長時間にわたる勉強時間を確保できている点
2点だ。
きれいごとが排除されれば「真実」だけが残るから、このブログの主旨と合致している。
勉強時間の確保も、本当にうらやましい。
ゴン桜の登場人物は115時間、年間300日を特別講師にべったりへばりつかれながら勉強している。
想像してほしい。並みのモチベーションであれば頭がおかしくなるだろう。
それだけやれれば1年で東大合格も可能かもしれないと思えてしまう。

そんなマンガだから、特別講師のセリフには信憑性がある。
実在の人物がモデルなのだ。だから引用したくなる。
そんな登場人物に、芥山という先生がいる。国語の特別講師だ。
その先生と私の意見が近いため、リスクを犯しても引用させていただく。

32人と同僚の国語教師の前で、芥山先生は断言する。
「出題される問題文は非常に難しい。そして時間の割に文章が長い。」
「大人が読んでも苦労する文章です。高校生に読んでパッとわかれと言うのが無理です。」
「ところが真面目な人はそうは思わない。繰り返し読んで内容を深く理解してから問題を解こうとする。」
「テスト時間内に内容を理解しようとあがいても解答には近づきません。」

そう前置きした上で、次のように告げる。
「問題を作る人の召し使いになれ。」
「自分では何も考えてはいけません。」

これを聞いた同僚の国語教師は思う。
「ひどい。いくらなんでもひどすぎます、芥山先生…」

芥山先生はテクニックと客観性を重視する人であります。
しかし人間の心理・真理をつくような言葉を次々と投げかける人でもあります。
決して、受験が終わればそれまでよ、という類のテクニックを教える人ではない。

このように、ドゴン桜をギャグだと思わずに、真剣に、書いてあることのすべてを吸収しようと思って読めば、バイブルになるようなマンガだと思う。
でもひょっとしたら、何かを犠牲にしてでも本気で何かを手に入れようとしている人でないと、心に響かないのかもしれない。

つづく






ご意見・ご連絡は・・・
yokohamatotal@gmail.com
へおねがいします。

2012年12月23日日曜日

勉強法の常識を疑うその5~現代文・国語の常識と真実1


現代文の攻略法については、ネットを見ても本を読んでも「読解力」に焦点が絞られているようだ。
ところが私は、前々から提言しているのだが、どうしてもそうは思えない。

私は現役の受験生時代から、テキストの本文解説や本文要約などは読み飛ばしていた。
ひたすら、選択肢の消去や抜き出し箇所の発見の方法を探求していた。
塾を開いてからもその方針は変わっていない。
それが生徒のためになっているという自信も、データも私は持っている。
問題文なんか理解しなくても、偏差値30台の生徒が、上智の現代文であっという間に7割を取れるようになった。
すべてはテクニックである。
そして、現代文のテクニックは非常に少なく、10日もあれば身に付けることが可能だ。

ところが、テクニックのみで解くというと、「読解力が身につかないじゃないか」と批判する人が必ずおられる。
たしかにその通りかもしれないが、読解力はテクニックを身につけたあとで、余裕があれば磨けばいいのでは?
普通の生徒なら、テクニックを身に付けたら他の科目、つまり英語や数学や理社をやりたがるけどね。
そう考えると、「読解力」を身に付けさせたいなんて言うこと自体、国語を教える側のエゴではないか。もしそうなら反省してもらいたい。
生徒が読解力を望んでいるならいい。
しかし、生徒が点数アップであり偏差値アップであり、その先にある合格を望んでいるならば、読解力は押し付けの勉強になってしまう。
現代文より配点の高い科目を、点数的に伸びしろがある科目を、より勉強したいと思うのは人情だ。
生徒のためを思うなら、「読解力を磨くくらいなら先に英数理社をやれ」というべきではないのだろうか。人間として。

お金を払って通ってくれている生徒がいる以上、ここで私の持つテクニックをすべて公開することはできない。
しかし、読解力を身に付けようとして現代文で苦しむのはもうやめてほしい。
そのためのヒントはちりばめたいと思う。

さしあたって、弊塾の元生徒であり現アシスタント講師、慶應大学経済学部2011年度合格イケメンの言葉を引用させていただく。

「問題文なんて数式にしか見えなくなった。そうなったとき、偏差値が70を超えて安定した。」

だって。


つづく






ご意見・ご連絡は・・・
yokohamatotal@gmail.com
へおねがいします。

2012年11月9日金曜日

勉強法の常識を疑うその4~英語の常識と真実3


(常識)英語には速読法がある
(真実)速読法があるとしたら、特殊能力である

昔テレビで、小学生くらいの子が、1冊の本をパラパラマンガのような勢いでページをめくり、1分もかからず内容を理解していた、というシーンを見た。
だから、もしかしたら速読法は存在するのかも知れず、その存在を完全否定することはできない。まあ、テレビの話だが。
ネットでも「速読」を売っているページもあることだし、なおさら存在を否定することはできない。

さて、皆さんは魔法や超能力を信じておいでか。
魔法や超能力を信じているなら当然、霊も信じていらっしゃるか。
私の独断と偏見では、
霊>超能力>魔法
の順でありえそうな気がしているが、どれも“存在する”とも“存在しない”とも証明されていないようなので、やはり速読法と同様、“存在するかどうかわからない”が正しいのだろう。

さて、ヨタもこれくらいにして、今回のテーマ「速読法」が存在するとしたら、私としては、それは超能力に近い特殊能力であると信じる。

しかし。
仮に、英語の速読法をマスターした高校生がいるとしよう。
果たしてその生徒は、英語で書かれている大学の物理のテキスト、たとえば量子や素粒子などの論文も速読できるのであろうか。
果たしてその生徒は、英検1級の長文も速読できるのであろうか。
無理だろう・・・
このことから、もし速読法があるとしても、
①ある程度理解できる内容であること
②自分の持つ文法や語彙の力より易しい英文であること。
でなければ速読法も役に立たないことになる。
逆に言えば、「英語力」を身につけており、内容を読み取る国語的な読解力があり、雑学にも詳しい受験生であれば速読も有効であろう。
さらに、それらに加えて、そもそも
③ゆっくり読めば理解できる英語の読解力があること
が前提なのではないか?
ゆっくり読んでもわからないものが速く読んでわかるわけないしな。

ん・・・?
つーか、つまり速読法って、まず普通の英語の勉強が必要なのでは・・・?

経験者ならお分かりいただけると思うが、偏差値が上がれば自然に読むのは早くなる。
単語熟語と技術さえ習得してしまえば、英文を読めば読むほど速く、正確に読めるようになる。
受験科目と別に「速読法」を学ぶ必要はないし、やることを1つ増やすなんてとんでもない。

無理なペースで速読をしても、読み違えれば得点にはならない。
いろいろな過去問を解けばわかるが、英語長文には経験値が高いと有利だ。
いろんな知識があれば、それだけ英文は早く読めて、理解もしやすいものだ。
それに現代文が得意であれば、同じノリで英文を読むことも可能だ。

結論。速読をやる前に、まずはオーソドックスな英語学習をすること。
知識や読解のために現代文も世界史も政経も物理も化学も世の中のことも勉強すること。
それに勝る速読法はないのだ。

ちなみに大学受験英語の試験では、多くの場合、“大意の理解”と“細部の読み取り”が求められる。
長文が仮に読めたとしても、選択肢の短文の解釈を誤っていては得点力が落ちる。
文法や熟語の独立問題は、多くが短文で出題されるので、前後から意味を推測するわけにもいかないから細部の読み取りができるようにならなければならない。
国公立大学の和訳や要約では、下線部を読み取るときは細部の読み取りだが、文章全体と矛盾しないような日本語を作成しなければならない点で大意の理解も必要である。

速読法が気になるのもわかる。
模試を受けても偏差値50程度では、まず時間が足らないから余計にそう感じるのであろう。
しかし、模試は難しいから、偏差値50程度なら時間が足らないのが普通だし、最後まで理解して解けたらそれはもう偏差値60なのだ。
だから偏差値55以下が目標であれば、模試での時間不足を苦にしてもしかたがないのだ。
パラパラまんがをめくるようなスピードで英語が読めたらいいとは思う。
しかしそんな人間がそうそういるか? いないだろう? 少なくとも私の知り合いにはいない。
いない以上、いたとしても特殊能力の持ち主であり、うらやましがってもいいが真似をしても徒労に終わるにちがいない。
かく言う私は小学生の頃、真剣にスプーンを曲げようとしたことがあるのだ・・・



次回以降は、国語の常識を切る予定。






ご意見・ご連絡は・・・
yokohamatotal@gmail.com
へおねがいします。


2012年11月1日木曜日

勉強法の常識を疑うその3~英語の常識と真実2


(常識)まず、文法
(真実)まず、単語熟語と長文

文法って何だろう・・・
今回は面倒くさいので定義はやめておきます。文法のテキストに載っているようなことを文法と呼びましょう。

前回の記事でもお伝えしたとおり、目標とする英語の偏差値によって勉強法は異なる。
偏差値55以下なら単語熟語だけでオッケーだし、それ以上の偏差値なら長文の訓練をまずやるべきだと申し上げた。
しかし、高校の授業がそうであるからなのか、英語の基礎は文法だと思っている受験生は異常に多い。
いったい、センター試験や英検2級で、文法問題がどれくらい出題されるかご存知だろうか。
センター試験での純粋な文法問題はわずか数問。しかも12点である。
英検2級も同様だ。
そして大半が語句と長文問題なのである。
つまり、細かな文法問題など解ける必要はなく、読んで意味がわかる程度の文法力があればよい。
文法に費やす時間はすべて語句と長文にまわすべきで、語句と長文で十分な点が取れるようになってから、トドメに文法をやるのが最も効率がいい。
受験は時間との戦いなので、効率は絶対に重視しなければならない。
特に国立受験生は科目数も多いのでなおさらである。

しかし、本当に文法が必要ないのか? 最後でいいのか? という疑問があるかもしれない。
もし英語の試験に文法力が絶対的に必要ならば、中2で英検3級に、中3で英検準2級に合格する生徒が多数存在する事実をどう受け止めなければならなくなるか。
弊塾には、小5で英検2級に合格した子も在籍している。
彼らは果たして、先々の学年の文法までマスターしているだろうか。
経験者ならお分かりいただけるはずだが、英検対策の極意は1にも2にも語句の暗記である。
英文の意味は単語をつなげてなんとなくわかればよい。
語句問題で高得点を取り、長文問題は単語で読みきるのだ。
このことは英検2級でもセンター試験でも、偏差値50程度の大学入試問題でも同様である。

さて、ここで前回に引き続き、目標偏差値ごとの勉強法を考えてみよう。

上位大学の英語の問題はほぼ長文だけだから、一人で単語熟語を覚えられる受験生は、読解技術に専念すれば英語は伸びる。
読解技術は故伊藤和夫が確立し予備校に広まった確固とした方法があるので、どの問題集を解いても書いてあることに大差は無くなっている。
(個性的な勉強法も多く紹介されてはいるが、まずはオーソドックスな方法を薦める。
オーソドックスは王道でもあるからだ。)

ところが、単語熟語が“一人では”覚えられない受験生もいる。いる、どころではない。偏差値50以下の生徒のほとんどが単語熟語が覚えられなくて苦しんでいる。
このレベルの受験生は文法もあやふやで、文型や品詞もきちんとは理解していない。
この状態の受験生に「まず文法」をやらせても、文法だけで1年が終わってしまう。
その点でも、「まず、文法」は恐ろしく遠回りな、このクラスの受験生はとくに、絶対にやってはいけない勉強方法なのである。
大切なのは英文の意味が分かること。訳ができることだ。
訳をするのに必要な限りで文法を教えるのはよい。
訳ができれば、文法は嘘を教えてもかまわない。
このウソの文法を、“なんちゃって文法”という。
ところが、なんちゃって文法を教えられる講師は少ないので、多くの受験生が遠回りをすることになる。

さて、偏差値50以下の受験生は単語熟語を一人で覚えられないと申し上げたが、ではどうすればいいのか。
簡単である。誰かサポートがいればいいのである。
覚えているときに講師が付いていればよい。
ところが、受験生もその保護者も、授業内で暗記をして、暗記にお金をかけることを嫌う傾向がある。
講師と一緒に暗記をすることが時間の使い方として最も有効だということとは逆接的だが、暗記にお金をかけてほしくない、暗記くらい一人でやれ、という保護者が多い。
しかし、むしろ問題を解いて丸付けをすることこそ、彼らは好きで得意である。
中学時代の勉強法がそれなのであろう。
よって、ある程度単語熟語を覚え、読解技術を学び、過去問で60%程度得点できるようになったら、演習を自習でするべきなのである。
こうなった段階で、塾での授業は、決して一人ではできない、仕上げの文法となる。

ここまで読み返してシマッタと思ったので注意しておくが、私は文法をやらなくていいと言っているわけではない。
文法は“後回し”“最後”“仕上げ”だと言っているだけである。
偏差値50前後やそれ以下の大学の問題を見ると、文法の独立問題も多い。
(といっても半分くらいは熟語が混じっているのだが。)
さらに文法学習は、文法の独立問題だけでなく、長文対策にも有効だ。
単語熟語がわかっても、長文で得点できないことがあるからだ。
たとえば空所補充。空所補充では文法的な思考が問われることもある。
選択肢の短文訳をする力も、見落とされがちだがかなり重要だ。
長文の全体像が読み取れても、選択肢の意味が正確に取れなければ失点する。
下線部訳だけでなく、会話文もこの要素だ。

最近多い、「下線部の語句と同じ意味の語句を選べ」という問題もそうだ。
純粋な語彙力を問う場合(1とする)もあるが、誰も知らない語句を文脈から推測させる場合(2とする)や、多義語の文中での意味を文脈から推測させる場合(3とする)もある。
MARCH上位以上は2が多いが、偏差値55までの大学は1と3が多い。


以上、文法は“後回し”“最後”“仕上げ”にやるのが最も効率がよいことがお分かりいただけただろうか。
しかし、市販の英語テキストは、何をやっても説明に「補語が~」「副詞節だから~」と書いてあるから困る。
また、塾や予備校講師はやたら文法用語を使うかもしれない。
そんなときは、まず訳などを読んで理解できればよいと思ってくれ。
「文法は、長文が少し読めるようになったらやろう」と思っていてくれ。


次回は「速読」を切る予定。




ご意見・ご連絡は・・・
yokohamatotal@gmail.com
へおねがいします。

2012年10月26日金曜日

勉強法の常識を疑うその2~英語の常識と真実1


(常識)英語力をつける

(真実)英語の偏差値を目標まで上げる

皆様は英語がお好きだろうか。
ちなみに私は、英語が好きではない。
日本語は読んでいて共感できるし、文章や言葉を味わうことができるが、英語ではあまりできないからだ。
要は日本語のほうがわかりやすいからだ。当たり前か。
中高生のとき、よく英語が好きな先生がいた。
英語の教師になるくらいだから英語が好きなのだろうが、英語が好きではない私は、
「余談はいいから技術を教えてくれよ」と思っていた。
ではなぜ英語を勉強し、仮にも教えられるくらいまでなったかといえば、受験に必要だったから、ただそれだけである。
多少でも英語ができるようになり、便利だとは思うこともある。
しかしそれでも、私にとって英語は学問ではなく、ただのコミュニケーションツールにすぎない。
海外旅行ができて英語のHPが読めればよいと思っている。
この年で言葉の通じない国へ旅行するのはいやだ。


さて、ヨタはこのくらいにして、大学受験では、よく「英語力をつける」「英語力を高める」「真の英語力」などと言われている。
たしかに、英語力なるものがあるのなら、あって困るものではない。
「英語力」と言われれば、聞こえはいいかもしれない。
では、私の慣わしとし、まず「英語力」の定義をするであります。

英語力とは、読解・表現できる能力が英語ネイティブに近いほど高い、と定義しよう。
この定義は間違っていないと思う。
要は、英検やTOEICで高いスコアを示すことができれば英語力が高いことになる。

で、センター試験と英検2級が仮に同レベルだとする。
すると、英検2級合格はセンターで60%以上取るのと同義だ。
さらに、で、センター6割や英検2級合格だと、大学受験での偏差値は50だ。
経験者ならお分かりかと思うが、英検2級で英語ネイティブとコミュニケーションが取れるかと問われれば、NOである。
センター6割や英検2級程度では、「英語力」がある(高い)とは言いがたいのである。
しかし、偏差値50までの大学なら対応できてしまう。
つまり、偏差値50程度の大学なら、「英語力」をつけるまでに到らなくてもよいのだ。

しかしやはり、上位大学で要求される英語の試験に限れば、ネイティブ感覚が必要である。
これも経験者なら納得してくれるはずである。
センターや英検2級をはるかに凌ぐ分量、語彙が要求されるため、いちいち日本語を解して(日本語訳をしながら)読み進めると時間が足らない。
英文を読んで、「英語ネイティブはこういうことを言いたいのだな」と理解できないと、正確に意味がわからない文が出てくる。
英作文や整序問題で、英語としてわかっていないと正解できない問題が出るので、英語を日本語に当てはめよう、日本語を英語に当てはめようという姿勢では合格点が取れない。

このように考えると、まず、目標とする偏差値によって英語の勉強の方法が異なることになる。
おおむね偏差値が55を超える大学では「英語力」を意識しなければならず、それ以下の大学には英語ネイティブ感覚すなわち英語力まで身につける必要はない。
目標偏差値によって英語の学習法が異なることは旧勉強法の真実ブログでもお伝えしているが、とても大切なことなので強調させていただく。

次に大切な点は、受験までの時間である。
何度でもいつでも受けられるTOEICなどと異なり、受験には試験までのタイムリミットがある。
だから誤解を承知で申し上げるが、趣味で英語を勉強している人や、長い時間をかけて英語力をつけた人、留学した人などの意見を聞くと、受験生は痛い目を見ることがある。
あと1年、あと半年で英語の偏差値65にしなければならないというような受験生は、ゆっくりこつこつと英語の勉強をしている時間はないのである。
まして目標偏差値が55以下ならば、英語力を磨くのは遠回りだ。
受験生は、最短の時間で目標とする偏差値に達しなければならないのだ。
受験生は、今の自分の偏差値、考え方、目標に応じて、失敗のない勉強法をとらなければならない。

ここでまとめよう。
偏差値55以下でいいのであれば、一切迷わずに単語・熟語を必死で覚えなさい。
ターゲット単語1900・熟語1000を完全暗記できれば、まず偏差値50は取れるはずだ。
余った時間は地歴公民や現代文古文、数学や理科に費やしなさい。
それ以上の大学を目指すのであれば、単語熟語を完全暗記“しながら”、文型と品詞を理解した後、長文を読む訓練をしなさい。試験のほとんどは長文なのだから。
長文の訓練は、故伊藤和夫氏がスタンダードを確立してくれたので、どこで何を解いてもほとんど差がない。伊藤和夫氏の著書が最短距離だとは思うが。
そしてある程度長文が読めるようになったら過去問を解いたり、細かい文法を覚えるのだ。
これが最短の方法である。
ただ、偏差値55以上を目指すのなら、暗記など自力でできて当然だ。
覚えられない、というのであれば志望校を下げなければならない。

話は最初に戻るが、「英語力」がある、すなわち英語ネイティブとコミュニケーションが取れる、というレベルは、少なくとも英検なら準1級、TOEICなら700が必要だろう。
これも経験者ならお分かりだと思う。
そして、早慶では準1級レベルの語句が平気で出題される。
しかしだからといって、早慶を受験するのに英検準1級の勉強をすればよいのかというと、そうではない。
英検2級合格から準1級合格までの道のりは、ネットで調べたり合格者の話を聞いたりすればお分かりいただけるはずだが、かなり遠い。
2級にぎりぎり受かったレベルなら少なくとも1年。
2級やセンターで90%以上取れた人でも半年くらいかかるのが普通だ。
受験にはタイムリミットがあるし他の科目もあるので、もっと効率のよい勉強をしなければならない。
誤解や失礼を承知で言うが、長い時間をかけて英語を得意にした人や、英語が大好きな人の意見ばかり聞いてはいけない。
予備校講師など、大学受験の専門家の意見だけを聞いてほしい。


常識と真実シリーズは次回に続きます。






ご意見・ご連絡は・・・
yokohamatotal@gmail.com
へおねがいします。


2012年8月6日月曜日

勉強法の常識を疑うその1


ここまでずっと観念的な記事が多かったため、反省はしていた。
私の意見などより、もっと有益な情報をお伝えできないかと、考えてはいた。
考えていたのにできなかったのは私がまだまだ未熟な証で、高3生に対しエラソーに説教する資格もないのかもしれないが、高3生は今が旬なのでタタいている。

「常識を疑う」というタイトルであるが、実はこれにも良し悪しがあると思う。
私は高校生のとき、高校が基本的に単位制であることに気づき(単位制高校ではない。当時は単位制高校なるものは存在しなかった)、単位さえ取れば卒業できることを突き止めた。
そして単位を取るためには、授業の3分の2以上に出席し、5段階で「2」以上を取りさえすればよいということを知ってしまった。
さらに細目を調べれば、ホームルームには単位はなく、よって出席義務がないこと。「ナントカ式」「ナントカ祭」「クラス対抗ナントカ大会」にも出席義務も単位も存在しないことを知ってしまった。
さらに、謹慎は通知表に載らない=大学受験に影響はないことや、停学は通知表には記載されるが、一般受験ではほとんど考慮されないことも知ってしまった。知ってしまった。
さらにさらに、青少年保護条例や刑法や刑事訴訟法なども調べ(ネットがなかったから本屋で立ち読み)、法の穴を知ってしまった。知ってしまったのだ。
私は「真実」を知ってしまったために、世間様や先生様や同級生たちに後ろ指を指されるような高校生活を送る羽目になってしまったのである・・・
世の中には知らないほうがよい「真実」もあるということだ。
さらに私は大学生のとき(副室K注:いいかげんにせぇよ・・・)

・・・今回は有益な、というよりも第一に知っていていただきたい「真実」をお話しするつもりである。
旧勉強法の真実を通じて、大学受験に際してはどのように勉強するべきか、どのような心構えが必要かを、客観的事実(合格体験記など)を交え、論理的に述べてきたつもりだ。
今回は、そのまとめとも言える内容にしたいと考えている。
話がそれてしまったら副室Kにチェックを入れてもらえばいいや♪

さて、私はよく女子高生から「昭和」と揶揄されている。
(副室K注:オイ!!!)

・・・さてさて、受験界で言われている常識 ―または常識すぎて常識とも意識されなくなっている既成事実― には、私にとって「ケッ」と思うものもあれば、思わず耳をふさぎたくなるものもある。例を挙げれば次のようなものだ。
・(英語)文法ができれば長文が読める。長文が読めないのは文法ができないからだ。
・(現代文)内容を読み取れなければ問いが解けない。まず内容。
・(数学)センスが必要。
・(数学)この問題はこうやって解く=解き方の暗記。
まだまだあるだろうが、詳しくは各科目ごとに書くとしよう。

知らないほうがよい真実もあるだろうが、このブログは勉強法の「真実」であって、勉強法の「常識」ではない。
ニュートンの力学が宇宙全体や微小世界には通用しなかったように、常識と真実とは異なることがある。まずその点をお考えいただきたい。
常識は多数意見であろう。いや、多数意見が常識となるのか。
民主主義ならそれでよいのであるが、科学界や受験界においてはそうはいかない。
受験界では偏差値50に近いほど多数派だ。
偏差値の人数分布はほぼひし形◆だと思っていただいてよい。
偏差値50が最大多数で、そこから離れるほど人数が減ってゆく。
よって高い偏差値の人間の発言はごく少数の意見となり、有名な予備校の講師やマスコミに頻出する人物の意見こそ影響力があるが、それでも興味を持った人にしかその声は届かない。
ましてそれらの人たちは常識に反することを言うことが多いためか、「ウチの子にはとても真似できないかな」とか「すごいのはわかるけど、私には私のやり方があるから」で終わってしまう場合もかなりあるだろう。
方法論だけを聞いても、その本質(理由)はわからない。
万有引力は理解しやすいが、相対性理論や量子力学は理解しづらい。
いきおい、最も多く届く声は「まわりの声」となり、100人に2人しかいない偏差値70超えの人間の声を聞く機会は少ない(偏差値60以上は100人中16人いる)。
耳を傾けるべきは偏差値60の人間の勉強法より偏差値70を超えた人間の勉強法であるはずなのに。
こう考えると、偏差値70超が3人いる私の塾はレアであるなあ。
(副室K注:さりげなく自慢してるのか?)

もう一点、気をつけていただきたいことがある。
現代文の「内容を読み取らなければ・・・」や数学の「センス」に通じるものだが、教育についてモノを述べる人間が、どれだけ分析し、どれだけの指導経験があり、どれだけの実績があるかである。
現代文の内容の読み取りも数学のセンスも、できるに、あるに越したことはない。
しかし、どうやったら読み取れるのが、万人が読み取れるようになるのか、センスがなかったらどうするのかは別問題なのだ。
それらができない生徒に対し、どのような対策が打てるかが大切なのである。
中学生のときの国語や数学の成績が「2」だった子に、内容を読み取れだの数学のセンスを磨けだのと言うつもりなのか?
それができなければ大学はあきらめろと?
つまり、偏差値70を超えているだけではダメで、自分の主張を裏付ける理論と客観的データを持っていなければ、「真実」は語れない。
理論もデータもない主張はタダの独りよがりであり、2ちゃんねるでも「ソースは?」と言われ一蹴されてしまう。

少なくとも、私と副室Kならこれらの疑問に答えられる。
英語・現代文・数学において何が最も大切で、何をすべきで、どのくらいの時間がかかるかを答えられる。
だから胸を張って「真実」をタイトルにしている。
耳障りのいいことばかり言ってはいないと思う。

では、ここまで論理矛盾がなければ各科目論へ進みたいと思うのでありますが、いかがでしょうか?
(副室K:まあ、だいたいよろしいでしょう)

では、つづく






ご意見・ご連絡は・・・
yokohamatotal@gmail.com
へおねがいします。

2012年7月12日木曜日

なぜ小論文か

とある原稿の締め切りに追われていた私は、youtubeにも飽きて、何気なく河合塾の偏差値ランキングを見ていた。(副室K注;っんなことしてたのかよ!)
すると、慶応SFC(総合政策)の偏差値が72.5に上がっているではないか!
それを見て、あいつ(K嶋)は本当にがんばったんだな、と思い出した。

入塾のとき、「慶応と早稲田とマーチとセンターと、あれもこれもと考えると全滅しますよ。第一志望に集中してください。だめなら浪人です!」と言い切る私に、お母様はたぶんドン引きしていらした。
しかし結果はその言の通り、法政には合格したものの立教3学部全滅(偏差値65弱)、早稲田滅(偏差値65強)、しかし小論文と英語のみでSFC(総合政策)=偏差値72.5に合格した。
英語が7割に満たなかったため、「小論文で受かったようなものだ」と話していた。

M上の例を以前ご紹介したが、K嶋も負けないくらいしつこかった。
K嶋もM上同様、納得するまで帰らないヤツだったのだ!
ときには23時過ぎに現れ、時間無制限。
議論は果てしなく、喧々囂々。
周りからは喧嘩をしているようにも見えたらしい。
総合政策の小論文では、多数の論文を読んでそれらの共通項を抽出しなければならない。
その点でK嶋はしつこく食い下がっていたし、K嶋の指摘で私が意見を変えたこともあった。
厳しい採点もした。100点満点で40点という点数をつけたこともあった。
M上とダブる。本気だと、誰でもそうなるのかもしれない。
はっきり言おう。かなり・・・
(副室K注;そのへんにしとけよ・・・)

・・・さて、いいかげん本論に入ります。
AOや推薦の勢いはとどまるところを知らず、小論文が「マイナー科目」「現代文のついで」「対策なんてできない」という地位から、一つの必要科目としてクローズアップされてきた。かもしれない。
ともかく、漢文や地学や倫理よりも受験科目とする学生は多いのではないか。
AOや推薦なら理系文系関係なく課されるし、大学だけでなく短大や専門学校入試でも必要だから尚更であろう。
資格試験や公務員試験に論文が課されるのも周知の事実だ。

ではなぜ、これほどまでに小論文が流行っているのか。
推薦だろうがAOだろうが、学科試験を課せばいいではないか、と思う。
それなのに、慶応大学や国公立大学を筆頭に、学科試験に加えてわざわざ小論文を課す学部がある。
国公立後期では、なぜかほとんどの学部で小論文が出題される。
繰り返すが、なぜ今、小論文なのか。
もちろん理由があるのだろう。

小論文の添削をしていると、当然ながら上手い、下手がある。
それではどのような点で上手いか下手かを感じるかといえば、一番のポイントは「全体的な統一感」である。
これを「論理力」などという人が多いかもしれない。
が、私が言いたいことと論理力は似てはいるが、ちょっとだけ違う。
論理は、ABBC、だからAC、というだけのことである。
「タバコは体に悪い。体に悪いことはやめるべきだ。だからタバコはやめるべきだ。」となる。
このように書けば無難で、平均点はもらえる。
まあ、この論理が破綻していればまともな点はもらえないのだから、最も意識しなければならない点ではある。
が、それでもこれだけでは、「上手い」と思うには至らない。
論理的に正しくても、主張が分かりづらい文章はある。

たとえば、「風が吹けば桶屋が儲かる」という話は、論理的には正しく?ても全体としての統一感に欠ける。主張がボケてしまうし、無理があるように感じるのだ。

一読して納得してしまう文章には、全体として統一感がある。
ラーメンに例えよう。
上手いラーメンは、一口食べただけで「うまい」と感じる。
スープには豚骨・魚介類・野菜などが使われているが、それらは「うまいスープ」という目的のために統一感を持って結びついている。
さらに麺・具材も「うまいラーメン」のために調和している。
しかし豚骨と魚介の間に論理があるかどうかは分からない。個人的にはどちらでもよい。
文章も同じで、論理はともかく、すべての段落・文・文節・語句が全体として統一感を持ってはじめて、上手な文章に見えるのである。
うまいラーメンも、一つ具材を欠けば間の抜けた味になることがあるし、余計な具材を足せば不味くなってしまうかもしれない。
小論文は、なんとラーメンだったのだ!

さて、ではどうすれば「うまいラーメン」を作れるか、じゃなかった「上手い小論文」ができるのか?
そのためには国語の語彙力も必要だが、圧倒的に数学の力が要る。
ABBC、だからACという文章を書こうとしたときに、むやみにDEを登場させるのではなく、書くことすべてをABCと結びつけ、Aの補集合(反対意見)や、Bの関数や図形(具体例)を書くと上手い文章になる。
ところがABCから離れたり、Aの補集合やBの関数を間違えたり、それがABCと結びついていないように感じさせてしまう文章は、「下手だなあ」と思われてしまうのである。
このように国語(小論文も含む)には、どうしても数学の力が必要なのである。

もし知性に数的思考力を含むなら、小論文には書いた人の知性が現れてしまうことになる。
書いた人に数的思考力があるかどうかが、モロに出てしまう。隠したくても隠せない。
だからこそ、入試で積極的に課されるのだろう。
こんなブログを書くときですら、私だってボロが出ないよう必死なのである。

youtubeでお笑いを見ていると、面白い漫才は必ずと言っていいほど話題が統一され、オチも最初のつかみに関連付けられていることが多いと感じる。
私は、そんな芸人の漫才が好きだ。サンドウィッチマンとか、ナイツとか。
(副室K注;仕・事・し・ろ・よ)

追伸:
平安貴族は、ホントかウソかしらないが、文(ふみ)で恋愛していたという。
現代でも、ネットで恋愛が始まることもあるらしい(私は信じられないが)。
文章に知性が現れる証拠だろう。
・・・上手い文を書けると、モテるのか?
・・・ということは、私の文は下手なのか?







ご意見・ご連絡は・・・
yokohamatotal@gmail.com
へおねがいします。

2012年7月5日木曜日

守・破・離

茶道や武道には、「守・破・離」という言葉がある。
「守」とは師の教えを忠実に守って型を覚えること。
「破」は師の型を完全に習得した後、視野を広げて試行錯誤すること。
「離」は試行錯誤の結果、新たな型を生み出すこと。
と理解している。
一つの「道」の、修行の段階を表す言葉である。
…もし間違っていたら教えてください。

さて今回、言いたいことはすでにバレバレであろう。
「守」においては、

MJや副室Kは知識と型(思考方法)における師であるから、最初は真似しろ。

・真似のできないうちに持論を披露するな。

・文句はやってから言え。

と言いたいだけである。
が、それができれば誰も苦労はしないのである。
いわんや「破」をや、である。
(ここまで問題提起)

(ここから具体例)
さて、私ことMJ20代の頃、ゴルフを教えてもらったことがあった。
私にゴルフを教えてくれた人は、すなわち私の師である。
ところが、師の真似をしようとしても、どうしてもできない。
要はヘタクソなのである。
私は、こう見えても運動神経が悪いと思ったことはない。
高校の部活では県大会ベスト8まで進んだし、バッティングセンターでは140kmの速球を打ち返すことができた。カーブだって打てる。
車の運転も得意だし、水泳も好きだし、高校時代はクラスを代表して駅伝大会にも出た。
大学時、ゲーセンでパンチ力を測定したら、サークルで一番だった。
そういえば、バック転もできた。
パチスロではビタ押しという高等技術ができて、かなり儲けた。
それはともかく、だからこそ、ただの止まっているボールをまっすぐ打てないことはショックだった。
いくらがんばっても、師からOKは出なかったのである。

(ここから転)
「守」は真似ることである。
よく分析すれば、私が得意なのは、単に動体視力や筋肉や肺を使うことであった。
師は常に、私に対して「力を抜け」とアドバイスしてくださった。
ところが運動に際して力を抜くという経験などなく、もっと言えば運動で手加減してはいけない、筋力を常にフルパワーにして行うのが運動だ、という観念が私にはあった。
その固定観念がゴルフ上達の、「守」の邪魔をしていたのだと、実は最近になって、やっと気づいた。
私は真似をしていなかったのだ。

(ここから結)
真似るだけと言うけれども、完全に真似るためには、固定観念を捨てなければならない。
固定観念は、真似だけでなく、コミュニケーションにおいても障害となる。
師の真似をしたり、人の真意を発見したりするには、邪魔なものは取り払わねばうまくいかないのだろう。
体力を過信した私がゴルフがヘタクソであったように、自分のやり方や主義にたとえ無意識でも固執すれば、師の真似はできないのだろう。
そして固定観念を取り払うには、謙虚になるしかないのだろう。
ところがやっかいなことに、謙虚になるということは、これまでの自分のやり方や考え方を否定するということでもあるのだ。
人は誰でも、自分を否定されれば不愉快になるし、自分を否定する人間は敵であるとも見なす。
本当に初心者ならば謙虚にもなれようが、多少の自信のあるヤツが謙虚になることは、実は相当難しいのである。
その点こそが「守」の関門であり、勉学の上達の障害であろう。

副室Kも勉強法の真実ブログの中の「副室Kの言いたい放題」で酷いくらいさんざん書いている。
「中学の数学ができたくらいで高校数学ができると思うな」とか、「ぶっこわす」とか。
それは真実だったのだ。


受験においては、MJと副室Kの真似ができれば、それだけで偏差値65になってしまう。
そのため、「破」や「離」が必要な場面はほとんどない。
逆に言えば、師ができることは「守」までであって、「破」を教えることはできないのである。
ゆえに、私たちは「偏差値65までは引き上げられるが、その先は本人しだい」と言い続けている。
まず、「守」を。
つらいが一度ぶっ壊れて、真似をしてくれ。

もしかしたら、ブログのタイトルも「勉強の真実」にするべきかもしれない。


エピローグ
受験においては「守」がとても大切で、社会に出てからもそれは変わらない。
しかし、社会に出ると「破」も「離」もどうしても必要になるのだ。
なぜなら、時代は変化するからだ。
そのことは社会で活躍されている親御さんが一番よくご存知であろう。
今よいとされていることが、10年後、20年後、30年後にもよいとされるかはまったくわからない。
今は安全安心とされていることが、実は危険なのかもしれない。
基本的な型は同じであっても、異なる価値観の社会が訪れるかもしれない。
社会は必ず変遷してゆく。その社会を生き抜く力は、「守」だけでは得られない。
自分で観察し、自分で考え、自分で決断する力がどうしても必要なのだ。

そういうわけだが、受験生諸君はまずは「守」ができるよう、謙虚になりなさい。
そして「守」ができて偏差値65を超えたら、型を破って偏差値70を目指して欲しい。
一科目でいい。超えるよう努力してもらいたい。
偏差値65を超えることができなかった受験生諸君は、大学や専門学校に入ってから、「破」と「離」をぜひ意識して欲しい。
激動の社会を生き抜く力を身につけること。
それこそがMJと副室Kの願いである。


では。今回の記事は小論文の参考にするように。






ご意見・ご連絡は・・・
yokohamatotal@gmail.com
へおねがいします。



2012年6月5日火曜日

勉強の素地とは何か?


いきなり引き合いに出して申し訳ないが、勉強法の真実ブログでも再三登場したK君が、東京理科大に進学した。
残念ながら第一志望には手が届かなかったものの、その努力は立派だったと思っている。
浪人しても…と言っていたK君だったが、興味のある学科だということなので安心した。

中1の頃、体がちっちゃくって、80分の授業をフルに受けられず、40分週2回に分けたことを何よりもまず思い出す。
中学時代、3と4混じりの成績からオール5まで伸びたが、高校進学後は数学で苦しんだこともあるK君だった。
それでも彼には夢があって、その夢をあきらめることはなかった。

高校時代、私たちには再三苦言を言われていた。
ちょっと勉強をサボるとすぐできなくなる。
独断で勉強法を変えるとすぐ偏差値が落ちる。
決して、目から鼻に抜けるような思考力の持ち主ではなかった。
詳しい合格体験記は副室Kに委ねたいが、K君を見てきてつくづく、頭のよさは後天的なのだと痛感する。

私もK君も、そして勉強法の真実ブログに登場した受験の成功者たちも、ほとんどの人間が先天的に(遺伝的なのか突然変異なのか)知能指数が高いわけではないことに今更ながら気づく。
極めて高い偏差値の大学(慶応、早稲田、ICU、上智、旧帝大など)に合格した生徒たちのほとんどが、だんだん登りつめたというか、長い年月をかけて偏差値を上げていった。
決して半年や1年で目標達成をしたわけではない。

ちなみに、現在アシスタント講師をやっている元生徒のFなんぞ、副室Kの高校合格体験記によればまるっきり好青年のようであるが、大学に入った途端に本性を表し、青春を謳歌している。留年上等とも言っていた。
生徒からは「こわい」「目を合わせたら殴られそう」と面と向かって言われている。
決してそんなことはないのであるが……
まるで私の大学時代を見ているようなので、私のようにならないよう毎日必死に洗脳しているが…
ちなみにFは、私立では日本一の偏差値を持った大学の経済学部の学生なのである。
受験生時代は、たぶん私立文系では日本一努力をしていた。

こんな生徒たちを見てきた私だから、確信を持って言えることがある。
元々頭のよい人間なんてほとんどいないし、勉強ができるようになるような素地を元々持っている人間もいない。
まして、私も高偏差値の生徒たちも、決して頭がいいとは思えない。
高偏差値の子の勉強姿勢は、実に泥臭いのである。
英単語帳を300回読んだ、DUOを500回聞いた、という話を”普通”にしている。
「覚えた」と思っても、模試でA判定が出ても、忘れるのが怖くてついつい毎日英単語の勉強をしてしまう。
泥臭いだろう?


…蛇足かつ独断的な感想だが、先天的に知能指数が高い人間は、暗記力が“異常に”よい。
暗記が得意、なんてレベルではなく、尋常ではない暗記の量とスピードを持つ。
例を挙げるなら、高2NewCrown(ハイレベルな英語の教科書)を一読しただけで完全に暗記してしまうのである。
そういう人間は労せずして東大や医学部へ行くので(本人たちは努力しているつもりであろうが)、こんなブログは読んでいない。
MJのように、聞いた先から忘れてしまう人にこそ読んでいただきたい。


さて、閑話休題。
勉強法の真実ブログの“後天的に身につく頭のよさ”では好き放題語った私だが、定義すらしていないことに今更ながら気がついた。
素地って何?
頭のよさって?
定義をしなければ。

えーと、
素地とは、頭がよくなるために必要な、当人が持つ条件である。
頭のよさとは、情報を取捨選択し、目標を達成するために必要な手段を選んで実行できる能力である。
としよう。

要は、素地は条件で、頭のよさは結果であるらしい。


ここで一気にトーンが変わるが、素地の大切な要素の一つは意欲である。
意欲は、誰かが奪いさえしなければ、人は誰でも持っているものだ。
意欲のない人間はいない。いたらその人は廃人である。

大多数の子どもは、勉強ができないよりはできるほうがいいと思っている。
勉強がわからなくてもいいや、できなくてもいいやと思っている子がいたとしたら、私が親なら、勉強で身を立てる道をあきらめる。他の道を探す。
高校すら行く必要がないと思う。
しかし高校受験が視野に入る時期になると、それは子どもによっては小6だったり中3だったりするが、大多数の子どもは勉強への意欲を持つ。もちろん個人差はあるが。
そのとき、そのときこそが、素地を身につけるチャンスなのだ。
もちろん、普段から勉強ができるようになりたいと思っている子も多い。
そういう子は、できなければ悔しいから人に聞いたりするし、自分で問題集を解いたりする。
いずれにせよ、そのように じ・ぶ・ん・か・ら 勉強する気にならないと、頭がよくなる素地はできない。
勉強を“やらされて”いるうちは決して素地ができないし、素地ができなければ当然、頭はよくならない。

では、どのようになったときに素地ができたと言えるのか。

素地というと、基礎のことだと思って漢字や計算をやらせたり、思考力だと思ってパズルをやらせたりする方が多い。
また素地とは忍耐力のことだと思って、やたら分量をやらせたりする方もいらっしゃる。
私の主張する“素地”は、それとは異なる。
素地とは、「こうなりたい」と願ったときに、「こういうふうにすればいんじゃないかな」と考え、その方向に実際に進もうとする姿勢があることだと言いたい。
さらに、できたら嬉しい、できなければ悔しいという、素朴な感情を持てる状態だとしたい。
素地とは「リアルな意欲である」とも言えるだろう。

このように考えると、素地は普通、ほとんどの子どもが持っているのではないだろうか。
何も特別なことではないのだ。
勉強の能力と、その素地は無関係である。
そうしたらなぜ、勉強に対してやる気のない子がいるのだろうか。

原因をいくつか考えてみる。
1、まだ素地が育っていない=危機感がない
2、勉強をやらされすぎて、勉強が単なる苦痛、もしくはルーチンになっている
3、やってもやっても成果が出ないので、やっても無駄だと思っている
4、勉強に意味を感じられず、または他のことに興味がありすぎて、勉強の重要度が低い

1(危機感がない)について
たしかに、危機感が出るのが遅ければ遅いほど、成績は低くなるおそれはある。
しかし、無理にやらせても2(苦痛)や3(脱力感)になってしまう可能性があるので、やらせても結局同じである可能性が高い。
だったら無理をさせないのがベターだろう。

2(苦痛になっている)について
危機感がないうちにやらせすぎたり、レベルや興味に合わないことをやらせてしまっている。
続けば無気力になったりするおそれがある。
脱却する方法は強制しないことである。
やりたければ、やれ。やりたくなければ、結果は受け止めろ、と言ってあげることだ。

3(脱力感)について
かなりヤバイ症状。勉強に対する考え方や方法をリセットしなければならないが、長年の思い込みが強く、なかなか考えを変えられないことも多い。

これらは勉強に限らず、運動や芸術に関してもまったく同じことが言えるのではないだろうか。
例えば小さな子に、運動の基礎と称して単調な作業ばかり2時間もやらせたら、そりゃいやになるでしょう。
それと同じことを勉強でやらせていないか?
お悩みの親御さんはぜひ客観的にご自分を見ていただきたい。

私的な名著「ドラゴン桜」でも、運動や芸術などに熱中できた子は、勉強でも成果が出る可能性が高い、と言っている。
素地とは意欲のことなのだから、そのとおりだろう。
今勉強をしない子でも、いつか勉強する日が来るかもしれない。
その日を待つことが、実は最良の選択肢であるという結論になる。
確かに、待っていても勉強をする日が来ない子もいるだろう。
それは、残念ながら(本当は残念ではないはずだが)あきらめて他の道を探ったほうが、精神的にも将来の職業選択のためにもいいと思う。

親に必要なのは、ただ見守るという覚悟である。
どのような結果も、自身や子どもを非難せずに受け止める覚悟だろう。

それが一番難しいのだが……







ご意見・ご連絡は・・・
yokohamatotal@gmail.com
へおねがいします。