2012年7月12日木曜日

なぜ小論文か

とある原稿の締め切りに追われていた私は、youtubeにも飽きて、何気なく河合塾の偏差値ランキングを見ていた。(副室K注;っんなことしてたのかよ!)
すると、慶応SFC(総合政策)の偏差値が72.5に上がっているではないか!
それを見て、あいつ(K嶋)は本当にがんばったんだな、と思い出した。

入塾のとき、「慶応と早稲田とマーチとセンターと、あれもこれもと考えると全滅しますよ。第一志望に集中してください。だめなら浪人です!」と言い切る私に、お母様はたぶんドン引きしていらした。
しかし結果はその言の通り、法政には合格したものの立教3学部全滅(偏差値65弱)、早稲田滅(偏差値65強)、しかし小論文と英語のみでSFC(総合政策)=偏差値72.5に合格した。
英語が7割に満たなかったため、「小論文で受かったようなものだ」と話していた。

M上の例を以前ご紹介したが、K嶋も負けないくらいしつこかった。
K嶋もM上同様、納得するまで帰らないヤツだったのだ!
ときには23時過ぎに現れ、時間無制限。
議論は果てしなく、喧々囂々。
周りからは喧嘩をしているようにも見えたらしい。
総合政策の小論文では、多数の論文を読んでそれらの共通項を抽出しなければならない。
その点でK嶋はしつこく食い下がっていたし、K嶋の指摘で私が意見を変えたこともあった。
厳しい採点もした。100点満点で40点という点数をつけたこともあった。
M上とダブる。本気だと、誰でもそうなるのかもしれない。
はっきり言おう。かなり・・・
(副室K注;そのへんにしとけよ・・・)

・・・さて、いいかげん本論に入ります。
AOや推薦の勢いはとどまるところを知らず、小論文が「マイナー科目」「現代文のついで」「対策なんてできない」という地位から、一つの必要科目としてクローズアップされてきた。かもしれない。
ともかく、漢文や地学や倫理よりも受験科目とする学生は多いのではないか。
AOや推薦なら理系文系関係なく課されるし、大学だけでなく短大や専門学校入試でも必要だから尚更であろう。
資格試験や公務員試験に論文が課されるのも周知の事実だ。

ではなぜ、これほどまでに小論文が流行っているのか。
推薦だろうがAOだろうが、学科試験を課せばいいではないか、と思う。
それなのに、慶応大学や国公立大学を筆頭に、学科試験に加えてわざわざ小論文を課す学部がある。
国公立後期では、なぜかほとんどの学部で小論文が出題される。
繰り返すが、なぜ今、小論文なのか。
もちろん理由があるのだろう。

小論文の添削をしていると、当然ながら上手い、下手がある。
それではどのような点で上手いか下手かを感じるかといえば、一番のポイントは「全体的な統一感」である。
これを「論理力」などという人が多いかもしれない。
が、私が言いたいことと論理力は似てはいるが、ちょっとだけ違う。
論理は、ABBC、だからAC、というだけのことである。
「タバコは体に悪い。体に悪いことはやめるべきだ。だからタバコはやめるべきだ。」となる。
このように書けば無難で、平均点はもらえる。
まあ、この論理が破綻していればまともな点はもらえないのだから、最も意識しなければならない点ではある。
が、それでもこれだけでは、「上手い」と思うには至らない。
論理的に正しくても、主張が分かりづらい文章はある。

たとえば、「風が吹けば桶屋が儲かる」という話は、論理的には正しく?ても全体としての統一感に欠ける。主張がボケてしまうし、無理があるように感じるのだ。

一読して納得してしまう文章には、全体として統一感がある。
ラーメンに例えよう。
上手いラーメンは、一口食べただけで「うまい」と感じる。
スープには豚骨・魚介類・野菜などが使われているが、それらは「うまいスープ」という目的のために統一感を持って結びついている。
さらに麺・具材も「うまいラーメン」のために調和している。
しかし豚骨と魚介の間に論理があるかどうかは分からない。個人的にはどちらでもよい。
文章も同じで、論理はともかく、すべての段落・文・文節・語句が全体として統一感を持ってはじめて、上手な文章に見えるのである。
うまいラーメンも、一つ具材を欠けば間の抜けた味になることがあるし、余計な具材を足せば不味くなってしまうかもしれない。
小論文は、なんとラーメンだったのだ!

さて、ではどうすれば「うまいラーメン」を作れるか、じゃなかった「上手い小論文」ができるのか?
そのためには国語の語彙力も必要だが、圧倒的に数学の力が要る。
ABBC、だからACという文章を書こうとしたときに、むやみにDEを登場させるのではなく、書くことすべてをABCと結びつけ、Aの補集合(反対意見)や、Bの関数や図形(具体例)を書くと上手い文章になる。
ところがABCから離れたり、Aの補集合やBの関数を間違えたり、それがABCと結びついていないように感じさせてしまう文章は、「下手だなあ」と思われてしまうのである。
このように国語(小論文も含む)には、どうしても数学の力が必要なのである。

もし知性に数的思考力を含むなら、小論文には書いた人の知性が現れてしまうことになる。
書いた人に数的思考力があるかどうかが、モロに出てしまう。隠したくても隠せない。
だからこそ、入試で積極的に課されるのだろう。
こんなブログを書くときですら、私だってボロが出ないよう必死なのである。

youtubeでお笑いを見ていると、面白い漫才は必ずと言っていいほど話題が統一され、オチも最初のつかみに関連付けられていることが多いと感じる。
私は、そんな芸人の漫才が好きだ。サンドウィッチマンとか、ナイツとか。
(副室K注;仕・事・し・ろ・よ)

追伸:
平安貴族は、ホントかウソかしらないが、文(ふみ)で恋愛していたという。
現代でも、ネットで恋愛が始まることもあるらしい(私は信じられないが)。
文章に知性が現れる証拠だろう。
・・・上手い文を書けると、モテるのか?
・・・ということは、私の文は下手なのか?







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2012年7月5日木曜日

守・破・離

茶道や武道には、「守・破・離」という言葉がある。
「守」とは師の教えを忠実に守って型を覚えること。
「破」は師の型を完全に習得した後、視野を広げて試行錯誤すること。
「離」は試行錯誤の結果、新たな型を生み出すこと。
と理解している。
一つの「道」の、修行の段階を表す言葉である。
…もし間違っていたら教えてください。

さて今回、言いたいことはすでにバレバレであろう。
「守」においては、

MJや副室Kは知識と型(思考方法)における師であるから、最初は真似しろ。

・真似のできないうちに持論を披露するな。

・文句はやってから言え。

と言いたいだけである。
が、それができれば誰も苦労はしないのである。
いわんや「破」をや、である。
(ここまで問題提起)

(ここから具体例)
さて、私ことMJ20代の頃、ゴルフを教えてもらったことがあった。
私にゴルフを教えてくれた人は、すなわち私の師である。
ところが、師の真似をしようとしても、どうしてもできない。
要はヘタクソなのである。
私は、こう見えても運動神経が悪いと思ったことはない。
高校の部活では県大会ベスト8まで進んだし、バッティングセンターでは140kmの速球を打ち返すことができた。カーブだって打てる。
車の運転も得意だし、水泳も好きだし、高校時代はクラスを代表して駅伝大会にも出た。
大学時、ゲーセンでパンチ力を測定したら、サークルで一番だった。
そういえば、バック転もできた。
パチスロではビタ押しという高等技術ができて、かなり儲けた。
それはともかく、だからこそ、ただの止まっているボールをまっすぐ打てないことはショックだった。
いくらがんばっても、師からOKは出なかったのである。

(ここから転)
「守」は真似ることである。
よく分析すれば、私が得意なのは、単に動体視力や筋肉や肺を使うことであった。
師は常に、私に対して「力を抜け」とアドバイスしてくださった。
ところが運動に際して力を抜くという経験などなく、もっと言えば運動で手加減してはいけない、筋力を常にフルパワーにして行うのが運動だ、という観念が私にはあった。
その固定観念がゴルフ上達の、「守」の邪魔をしていたのだと、実は最近になって、やっと気づいた。
私は真似をしていなかったのだ。

(ここから結)
真似るだけと言うけれども、完全に真似るためには、固定観念を捨てなければならない。
固定観念は、真似だけでなく、コミュニケーションにおいても障害となる。
師の真似をしたり、人の真意を発見したりするには、邪魔なものは取り払わねばうまくいかないのだろう。
体力を過信した私がゴルフがヘタクソであったように、自分のやり方や主義にたとえ無意識でも固執すれば、師の真似はできないのだろう。
そして固定観念を取り払うには、謙虚になるしかないのだろう。
ところがやっかいなことに、謙虚になるということは、これまでの自分のやり方や考え方を否定するということでもあるのだ。
人は誰でも、自分を否定されれば不愉快になるし、自分を否定する人間は敵であるとも見なす。
本当に初心者ならば謙虚にもなれようが、多少の自信のあるヤツが謙虚になることは、実は相当難しいのである。
その点こそが「守」の関門であり、勉学の上達の障害であろう。

副室Kも勉強法の真実ブログの中の「副室Kの言いたい放題」で酷いくらいさんざん書いている。
「中学の数学ができたくらいで高校数学ができると思うな」とか、「ぶっこわす」とか。
それは真実だったのだ。


受験においては、MJと副室Kの真似ができれば、それだけで偏差値65になってしまう。
そのため、「破」や「離」が必要な場面はほとんどない。
逆に言えば、師ができることは「守」までであって、「破」を教えることはできないのである。
ゆえに、私たちは「偏差値65までは引き上げられるが、その先は本人しだい」と言い続けている。
まず、「守」を。
つらいが一度ぶっ壊れて、真似をしてくれ。

もしかしたら、ブログのタイトルも「勉強の真実」にするべきかもしれない。


エピローグ
受験においては「守」がとても大切で、社会に出てからもそれは変わらない。
しかし、社会に出ると「破」も「離」もどうしても必要になるのだ。
なぜなら、時代は変化するからだ。
そのことは社会で活躍されている親御さんが一番よくご存知であろう。
今よいとされていることが、10年後、20年後、30年後にもよいとされるかはまったくわからない。
今は安全安心とされていることが、実は危険なのかもしれない。
基本的な型は同じであっても、異なる価値観の社会が訪れるかもしれない。
社会は必ず変遷してゆく。その社会を生き抜く力は、「守」だけでは得られない。
自分で観察し、自分で考え、自分で決断する力がどうしても必要なのだ。

そういうわけだが、受験生諸君はまずは「守」ができるよう、謙虚になりなさい。
そして「守」ができて偏差値65を超えたら、型を破って偏差値70を目指して欲しい。
一科目でいい。超えるよう努力してもらいたい。
偏差値65を超えることができなかった受験生諸君は、大学や専門学校に入ってから、「破」と「離」をぜひ意識して欲しい。
激動の社会を生き抜く力を身につけること。
それこそがMJと副室Kの願いである。


では。今回の記事は小論文の参考にするように。






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