2012年6月5日火曜日

勉強の素地とは何か?


いきなり引き合いに出して申し訳ないが、勉強法の真実ブログでも再三登場したK君が、東京理科大に進学した。
残念ながら第一志望には手が届かなかったものの、その努力は立派だったと思っている。
浪人しても…と言っていたK君だったが、興味のある学科だということなので安心した。

中1の頃、体がちっちゃくって、80分の授業をフルに受けられず、40分週2回に分けたことを何よりもまず思い出す。
中学時代、3と4混じりの成績からオール5まで伸びたが、高校進学後は数学で苦しんだこともあるK君だった。
それでも彼には夢があって、その夢をあきらめることはなかった。

高校時代、私たちには再三苦言を言われていた。
ちょっと勉強をサボるとすぐできなくなる。
独断で勉強法を変えるとすぐ偏差値が落ちる。
決して、目から鼻に抜けるような思考力の持ち主ではなかった。
詳しい合格体験記は副室Kに委ねたいが、K君を見てきてつくづく、頭のよさは後天的なのだと痛感する。

私もK君も、そして勉強法の真実ブログに登場した受験の成功者たちも、ほとんどの人間が先天的に(遺伝的なのか突然変異なのか)知能指数が高いわけではないことに今更ながら気づく。
極めて高い偏差値の大学(慶応、早稲田、ICU、上智、旧帝大など)に合格した生徒たちのほとんどが、だんだん登りつめたというか、長い年月をかけて偏差値を上げていった。
決して半年や1年で目標達成をしたわけではない。

ちなみに、現在アシスタント講師をやっている元生徒のFなんぞ、副室Kの高校合格体験記によればまるっきり好青年のようであるが、大学に入った途端に本性を表し、青春を謳歌している。留年上等とも言っていた。
生徒からは「こわい」「目を合わせたら殴られそう」と面と向かって言われている。
決してそんなことはないのであるが……
まるで私の大学時代を見ているようなので、私のようにならないよう毎日必死に洗脳しているが…
ちなみにFは、私立では日本一の偏差値を持った大学の経済学部の学生なのである。
受験生時代は、たぶん私立文系では日本一努力をしていた。

こんな生徒たちを見てきた私だから、確信を持って言えることがある。
元々頭のよい人間なんてほとんどいないし、勉強ができるようになるような素地を元々持っている人間もいない。
まして、私も高偏差値の生徒たちも、決して頭がいいとは思えない。
高偏差値の子の勉強姿勢は、実に泥臭いのである。
英単語帳を300回読んだ、DUOを500回聞いた、という話を”普通”にしている。
「覚えた」と思っても、模試でA判定が出ても、忘れるのが怖くてついつい毎日英単語の勉強をしてしまう。
泥臭いだろう?


…蛇足かつ独断的な感想だが、先天的に知能指数が高い人間は、暗記力が“異常に”よい。
暗記が得意、なんてレベルではなく、尋常ではない暗記の量とスピードを持つ。
例を挙げるなら、高2NewCrown(ハイレベルな英語の教科書)を一読しただけで完全に暗記してしまうのである。
そういう人間は労せずして東大や医学部へ行くので(本人たちは努力しているつもりであろうが)、こんなブログは読んでいない。
MJのように、聞いた先から忘れてしまう人にこそ読んでいただきたい。


さて、閑話休題。
勉強法の真実ブログの“後天的に身につく頭のよさ”では好き放題語った私だが、定義すらしていないことに今更ながら気がついた。
素地って何?
頭のよさって?
定義をしなければ。

えーと、
素地とは、頭がよくなるために必要な、当人が持つ条件である。
頭のよさとは、情報を取捨選択し、目標を達成するために必要な手段を選んで実行できる能力である。
としよう。

要は、素地は条件で、頭のよさは結果であるらしい。


ここで一気にトーンが変わるが、素地の大切な要素の一つは意欲である。
意欲は、誰かが奪いさえしなければ、人は誰でも持っているものだ。
意欲のない人間はいない。いたらその人は廃人である。

大多数の子どもは、勉強ができないよりはできるほうがいいと思っている。
勉強がわからなくてもいいや、できなくてもいいやと思っている子がいたとしたら、私が親なら、勉強で身を立てる道をあきらめる。他の道を探す。
高校すら行く必要がないと思う。
しかし高校受験が視野に入る時期になると、それは子どもによっては小6だったり中3だったりするが、大多数の子どもは勉強への意欲を持つ。もちろん個人差はあるが。
そのとき、そのときこそが、素地を身につけるチャンスなのだ。
もちろん、普段から勉強ができるようになりたいと思っている子も多い。
そういう子は、できなければ悔しいから人に聞いたりするし、自分で問題集を解いたりする。
いずれにせよ、そのように じ・ぶ・ん・か・ら 勉強する気にならないと、頭がよくなる素地はできない。
勉強を“やらされて”いるうちは決して素地ができないし、素地ができなければ当然、頭はよくならない。

では、どのようになったときに素地ができたと言えるのか。

素地というと、基礎のことだと思って漢字や計算をやらせたり、思考力だと思ってパズルをやらせたりする方が多い。
また素地とは忍耐力のことだと思って、やたら分量をやらせたりする方もいらっしゃる。
私の主張する“素地”は、それとは異なる。
素地とは、「こうなりたい」と願ったときに、「こういうふうにすればいんじゃないかな」と考え、その方向に実際に進もうとする姿勢があることだと言いたい。
さらに、できたら嬉しい、できなければ悔しいという、素朴な感情を持てる状態だとしたい。
素地とは「リアルな意欲である」とも言えるだろう。

このように考えると、素地は普通、ほとんどの子どもが持っているのではないだろうか。
何も特別なことではないのだ。
勉強の能力と、その素地は無関係である。
そうしたらなぜ、勉強に対してやる気のない子がいるのだろうか。

原因をいくつか考えてみる。
1、まだ素地が育っていない=危機感がない
2、勉強をやらされすぎて、勉強が単なる苦痛、もしくはルーチンになっている
3、やってもやっても成果が出ないので、やっても無駄だと思っている
4、勉強に意味を感じられず、または他のことに興味がありすぎて、勉強の重要度が低い

1(危機感がない)について
たしかに、危機感が出るのが遅ければ遅いほど、成績は低くなるおそれはある。
しかし、無理にやらせても2(苦痛)や3(脱力感)になってしまう可能性があるので、やらせても結局同じである可能性が高い。
だったら無理をさせないのがベターだろう。

2(苦痛になっている)について
危機感がないうちにやらせすぎたり、レベルや興味に合わないことをやらせてしまっている。
続けば無気力になったりするおそれがある。
脱却する方法は強制しないことである。
やりたければ、やれ。やりたくなければ、結果は受け止めろ、と言ってあげることだ。

3(脱力感)について
かなりヤバイ症状。勉強に対する考え方や方法をリセットしなければならないが、長年の思い込みが強く、なかなか考えを変えられないことも多い。

これらは勉強に限らず、運動や芸術に関してもまったく同じことが言えるのではないだろうか。
例えば小さな子に、運動の基礎と称して単調な作業ばかり2時間もやらせたら、そりゃいやになるでしょう。
それと同じことを勉強でやらせていないか?
お悩みの親御さんはぜひ客観的にご自分を見ていただきたい。

私的な名著「ドラゴン桜」でも、運動や芸術などに熱中できた子は、勉強でも成果が出る可能性が高い、と言っている。
素地とは意欲のことなのだから、そのとおりだろう。
今勉強をしない子でも、いつか勉強する日が来るかもしれない。
その日を待つことが、実は最良の選択肢であるという結論になる。
確かに、待っていても勉強をする日が来ない子もいるだろう。
それは、残念ながら(本当は残念ではないはずだが)あきらめて他の道を探ったほうが、精神的にも将来の職業選択のためにもいいと思う。

親に必要なのは、ただ見守るという覚悟である。
どのような結果も、自身や子どもを非難せずに受け止める覚悟だろう。

それが一番難しいのだが……







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