2013年9月30日月曜日

完全無欠の男について

突然ですが、旧ブログより記事の移転を順次行ってまいります。
今回は”勉強法の真実ブログ”2009年03月13日より。。


昨日、完全無欠の講師が去った。大学卒業である。
背も高くガタイもよく、スポーツもできて気力充実、性格温厚にして明朗、授業はわかりやすくギャグがつまらない、いい男だった。
こんな人の彼氏にならなってもいいかな、と思えるほどの好人物である。
学生講師でありながら教室の全生徒を把握しようと努め、
男性でありながら女子生徒のウケもよく、
まじめな生徒からちょいワルの生徒まで彼を慕い、
東にギブスをはめた生徒あれば、行って肩を貸してやるほどの人物である。
上司に対する問い方も完璧。
「今、お時間よろしいでしょうか? ・・・について、A案とB案が考えられます。私はA案がいいと思うのですが、A案でしょうか、B案でしょうか。」と、こうだ。
非の打ち所がないヤツとは彼のことであろう。
こうなると欠点を探してみたくなるが、まったく思い至らない。

彼はウチから何かを学んだのであろうか。
昨日、「たくさん勉強させてもらいました」と言っていたが、私は恥ずかしくなった。
社交辞令かとも思ってしまった。
そう思ってしまうくらい、私は彼を教育しなかったのだ。
助けてもらうばかりで。
私は文系で、理系の彼とは指導すべき科目が違うと同時に、教えることが何もなかったのである。彼の相談相手は理系の副室長だった。
しかし社交辞令だよな、と思った次の瞬間、私は自分の心の卑しさを悔やんだ。
彼の名誉のために具体的には言わないが、彼はウチとの別れを本当に惜しんでくれたのである。

私は、彼は何かを得たのだと思うことにした。
そうでなければ彼に申し訳が立たない。

結局講師は、経験を積んだからいい講師になるわけでもなく、学生だから質が低いわけでもない。
要は、人なのである。教育は、人なのである。
証拠に、彼の担当生徒はこれまで全員、第一志望に合格している。
技術だけで成し得ることではない。

よくよく思い起こせば、彼は講師となってから成長した。
最初は頼りなかった。
最初から完全無欠などではなかった。
直すべき点はたくさんあったのだ。
彼は指摘を前向きに受け止め、成長し、やがて後輩に同じことを伝えていた。

そう、人の欠点を探そうとすること自体、恥ずべきことだった。

彼には、とても大切なことを教えられた。





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2013年9月18日水曜日

パーテーション無し の効果

前回、講師の記事を書いていて思ったことがある。
そうだ、ウチの塾はパーテーションがないんだった、と。(副室K注:いったい何の関係があるんだ?)

「何?ココ?」ですよね。ウチの塾です・・・

そして、学生講師に担当生徒を持たせず、アシスタント扱いをしているのであった。
ウチは従来の個別塾の発想の真逆、正反対を突き進んでいる。
これはひょっとしたらすごいことなのではないか? と思い始めた。

それでは、個別塾なのにパーテーションを取っ払ったらどうなったか? をお話させていただきたい。

巷では、パーテーションは個別塾の標準装備と思われているようだ。
個別塾にはふつう、生徒の前後(と左右どちらか)を仕切るパーテーションなるものが存在する。
この仕切りによって、授業は直接指導する講師にしかわからないようになってしまっている。
それゆえ、大多数の個別塾では、教室長が授業の様子を知るには、講師から直接話を聞くしか方法がない。
教室長が巡回をしたところで、わかる情報は一部でしかない。
なにより、授業のすべてを講師にまかせるので、講師を育てるのに苦労するし、教室全体としての指導方針を統一するのにも苦労する。
しかし「パーテーションがないと集中できない」と悠久の古来より言われていたし、HPでもそのように言われているのを今でも見る。
なにより私だって、つい2年前まではそう思っていたのだ。
というより、思考停止していたのであろう。
よくないことだ。

ウチの塾がパーテーションを無しにしたのは他でもない、単に「後で買おう」と思っていたからだった。
急ぎドタバタの中でハコ作りをしていたので、とにかく優先順位が机、椅子、ホワイトボード、暖房だった。最低限授業のできる設備を優先しなければならなかったからだ。
そしてパーテーションのないまま開校。授業をしてみたら・・・これがなんとも良かったのである。


「個別 塾 パーテーションなし」などで検索してみると、パーテーションのない個別塾はわずかだ。
しかし、わずかではあるが、ある。
他塾さんの宣伝のようになってしまうが、九州地方にある学習塾さんはパーテーションのない教室運営をされており、その様子や評判はウチとよく似ていた。

そして、その九州の学習塾さんとウチに共通する様子はというと、以下のとおりである。

「静か」
パーテーションがないと周りの話し声が気になるのでは、と思われていたが、まったく逆だった。
むしろパーテーションがあるほうが私語が多く、音量も大きかった。

「サボれない」「緊張感がある」
パーテーションに隠れて携帯をいじったり、居眠りができない。
休憩や居眠りがしたければ、勉強した後で堂々とすればいいのだ。
また、みんなが勉強している姿を見てしまうと、自分もやるしかないと思えるのだ。

「生徒は講師の様子がわかり、講師も生徒の様子がわかる」
講師が隣からいなくなってしまって(コピーなどで)、戻ってくるのをじっと待つ、なんていうことがない。
振り向けば講師が必ずいる安心感がある。
講師は、ペンの止まっている子がすぐに見える。



いやいや、いいことづくめではないか。
とにかく教室にいる全員の様子が見られる。自習の子も含めて。
そして全員が、パーテーションのある頃より集中している。
誰も私語をしない。周りに迷惑だから私語ができない。でも休憩時間は私語OKで、メリハリができた。
アシスタント講師の様子もよく見られるし、アシスタント講師が困ったときにすぐプロ講師を呼べるし、すぐプロ講師が助けに行けるし、アシスタント講師がプロ講師の指導を見て学ぶことができている。
担当生徒や担当講師がいるわけではなく、講師全員が生徒全員を見ることになり、情報共有が容易だ。
生徒も講師もみんなが顔見知りになり、仲良くなった。休憩時間には笑い声が絶えない。
生徒間で、先輩が後輩の面倒を見る、後輩が先輩を見習う“部活”的雰囲気が生まれた。だから“勉強部”と名づけた。
夏期講習の打ち上げを高校生が行うという伝統ができた。
担当講師の指名合戦がなく、きわめて平和・平等だ。

「憩いのテーブル(笑)」の上。空腹で集中できない、をお菓子で防ぎまーす笑

と、なんか宣伝ぽくなってしまったので、この辺で。
決して宣伝ではなく、ただの自画自賛、自己陶酔なので許してください。
ウチは合う人には合うし、合わない人には合わないと思う。
でも万人に合う塾なんてないのだから(もしそんな塾があれば、その塾だけに生徒が集中するはず)、それでいいと思っている。


それにしても、常識とは染み付いてしまうものなのだ、とつくづく思う。
染み付いてしまうと、疑うことを忘れてしまう。
それは怖い。いつもいつも疑うようにしよう。



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2013年9月6日金曜日

大学4年生 とくに女子について


ウチのアシスタント講師が急成長をしている。
いや、アシスタントゆえに成長が早いのかもしれない。だってプロ講師のやっていることをいつも見ているんだから。
そのうち、「立ていMJ! 天に帰る時が来たのだ!!」とか指を立てて言われそうな気がして怖い。

そんな妄想を繰り広げていたら、今までの講師のことを思い出した。
そして、講師について特に感じるのは、大学4年生になると違うなあ、ということである。
特に女子。(副室K注:あのー、前フリはいったい何だったの?!)
彼女らは4年生になると急に大人になり、仕事も出来るようになり、性格まで穏やかになる気がする。なので私は大学4年生の女子が大好きだ。
・・・かなり語弊がある言い方な気がするが、決していやらしい意味ではない。本当だよ!

旧勉強法の真実ブログでは何人かの講師について書いた記事があるが、女子についてはあまり触れていなかった。
印象に残っている講師は女子にも多いのだが、どう書いたらいいものか考えているうちに機会を逃していた。正直、いやらしく聞こえたらと思うと怖かったし。

独立初年度、中3の入試直前に休みなしで働いていたとき、直前模試を開催する前日、私は意識が朦朧としていて、たぶん目が逝っていた。
それを見ていたのか、大学4年生の講師W(女子)は、
「明日は模試だけなんですか? だったら私、出勤しましょうか? 模試くらい私1人で出来ますよ。休んでいいですよ。つーか、邪魔だし役に立たないから来ないでください。」
とキリッと言った。休日なのに出てきてくれると。
普段から憎まれ口ばかり叩く子で、一度も親切にされたことはなかったのが、このときばかりは天使に見えた。また語弊が。

短期間事務で来てもらったYさんも大学4年生女子だった。
ウチの副室Kは事務処理能力を常に自慢しているが、YさんはKに匹敵する事務能力を持っていた。
加えて、人の動きをよく観察しているというか、よく先の動きが読める子だった。
あまりにも期待以上の働きをしてくれるので、4年生は違うなあ、と思っていたことを覚えている。
「アタシ、すごい男っぽいって言われるんで」
なんて言っていたが、いやいやすごく魅力的な女性でした。語弊。

旧勉強法の真実ブログに“完全無欠の男”と“W”が登場しているが、彼らといまだに仲良くしているらしい女子、KとMも大学4年生まで働いてくれた女子だ。
本当は彼女ら一人一人について詳しく書いて記録に残したいほどなのだが、女子だから特定されると大変だ、などと思い書きそびれてしまった。
KもMも、1年生のときは何度も何度も怒られ、ぽろぽろ泣いていた。
それが4年生になると見違えるように大人になり(語弊)、自ら考え、頼られる女子へと変身したのがすごく印象的だった。
Kは担当生徒をトップ校へ入れた。就活もまるで苦労していなかった。4年生になってからは、表情もしぐさも自信に満ち満ちていた。
Mなんぞは時給がダウンしたことまであったが、その屈辱を努力で跳ね返した。
そして大学在学中に進路を変更し、教師になった。箱入りだったお嬢様が、自分の足で歩きはじめ、自分で選んだ夢を実現した。

講師Yもそうだ。
最初の頃はかなり頼りなかったが、いつも努力を惜しまなかった。
4年生になると自ら指導的な立場を取るようになったが、穏やかな性格とやわらかいものの言い方から疎まれることはなかった。教室運営にも積極的に協力してくれた。
苦手な科目も克服しようと努力し、念願の教師になった。

と、まだまだあるがとても書ききれないので、またいつか。必ず。


いやはや、こんなにたくさんの講師に支えられていたんだな、とあらためて思う。
自戒というか、常に肝に銘じていよう。
私の力は微小なのだ、と。
それにしてもどうして女子は、大学4年生になるとこうも大人になり、なおかつ塾を助けてくれるのだろう。
ジェンダーギャップなど言うつもりはないが、あくまでも割合として、大学4年生になると、男子は塾より外の世界を見ようとし、女子は塾の中をよく見ようとしてくれる子が多い、と思っている。
男子は4年生になると「最後だ遊ぶぞー」と意識が外に向き、女子は「私は・・・」と内側を見つめるようになるのだろうか。
男子は社会人になってもまだまだガキが多いが(昭和末期の印象)、女子の場合、社会人になるということに人生計画や自己実現を含めて考えたりしていて、男子よりずっと大人の自覚があるのではないだろうか? などと邪推している。
もし大学4年生の行動に私の印象どおりの男女差があるとしたら、そうした社会的な差なのかもしれない。
“母性本能”なんかで片付けるよりは、この邪推のほうがマシだろうと思っている。


先日、二人の大学1年生女子がアシスタント講師として働くことになった。二人とも元生徒である。
二人と少しだけ話をしたが、まだまだあどけなく、高校生の頃と何も変わっていないように感じた。
この二人も、4年生まで働いてくれるだろうか。
そして、3年後には別人のように大人になり、頼られる大人になるのだろうか。
今の二人を見ているとまったくそうは思えないが、成長を楽しみにしていようと思う(語弊)。






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