2012年8月6日月曜日

勉強法の常識を疑うその1


ここまでずっと観念的な記事が多かったため、反省はしていた。
私の意見などより、もっと有益な情報をお伝えできないかと、考えてはいた。
考えていたのにできなかったのは私がまだまだ未熟な証で、高3生に対しエラソーに説教する資格もないのかもしれないが、高3生は今が旬なのでタタいている。

「常識を疑う」というタイトルであるが、実はこれにも良し悪しがあると思う。
私は高校生のとき、高校が基本的に単位制であることに気づき(単位制高校ではない。当時は単位制高校なるものは存在しなかった)、単位さえ取れば卒業できることを突き止めた。
そして単位を取るためには、授業の3分の2以上に出席し、5段階で「2」以上を取りさえすればよいということを知ってしまった。
さらに細目を調べれば、ホームルームには単位はなく、よって出席義務がないこと。「ナントカ式」「ナントカ祭」「クラス対抗ナントカ大会」にも出席義務も単位も存在しないことを知ってしまった。
さらに、謹慎は通知表に載らない=大学受験に影響はないことや、停学は通知表には記載されるが、一般受験ではほとんど考慮されないことも知ってしまった。知ってしまった。
さらにさらに、青少年保護条例や刑法や刑事訴訟法なども調べ(ネットがなかったから本屋で立ち読み)、法の穴を知ってしまった。知ってしまったのだ。
私は「真実」を知ってしまったために、世間様や先生様や同級生たちに後ろ指を指されるような高校生活を送る羽目になってしまったのである・・・
世の中には知らないほうがよい「真実」もあるということだ。
さらに私は大学生のとき(副室K注:いいかげんにせぇよ・・・)

・・・今回は有益な、というよりも第一に知っていていただきたい「真実」をお話しするつもりである。
旧勉強法の真実を通じて、大学受験に際してはどのように勉強するべきか、どのような心構えが必要かを、客観的事実(合格体験記など)を交え、論理的に述べてきたつもりだ。
今回は、そのまとめとも言える内容にしたいと考えている。
話がそれてしまったら副室Kにチェックを入れてもらえばいいや♪

さて、私はよく女子高生から「昭和」と揶揄されている。
(副室K注:オイ!!!)

・・・さてさて、受験界で言われている常識 ―または常識すぎて常識とも意識されなくなっている既成事実― には、私にとって「ケッ」と思うものもあれば、思わず耳をふさぎたくなるものもある。例を挙げれば次のようなものだ。
・(英語)文法ができれば長文が読める。長文が読めないのは文法ができないからだ。
・(現代文)内容を読み取れなければ問いが解けない。まず内容。
・(数学)センスが必要。
・(数学)この問題はこうやって解く=解き方の暗記。
まだまだあるだろうが、詳しくは各科目ごとに書くとしよう。

知らないほうがよい真実もあるだろうが、このブログは勉強法の「真実」であって、勉強法の「常識」ではない。
ニュートンの力学が宇宙全体や微小世界には通用しなかったように、常識と真実とは異なることがある。まずその点をお考えいただきたい。
常識は多数意見であろう。いや、多数意見が常識となるのか。
民主主義ならそれでよいのであるが、科学界や受験界においてはそうはいかない。
受験界では偏差値50に近いほど多数派だ。
偏差値の人数分布はほぼひし形◆だと思っていただいてよい。
偏差値50が最大多数で、そこから離れるほど人数が減ってゆく。
よって高い偏差値の人間の発言はごく少数の意見となり、有名な予備校の講師やマスコミに頻出する人物の意見こそ影響力があるが、それでも興味を持った人にしかその声は届かない。
ましてそれらの人たちは常識に反することを言うことが多いためか、「ウチの子にはとても真似できないかな」とか「すごいのはわかるけど、私には私のやり方があるから」で終わってしまう場合もかなりあるだろう。
方法論だけを聞いても、その本質(理由)はわからない。
万有引力は理解しやすいが、相対性理論や量子力学は理解しづらい。
いきおい、最も多く届く声は「まわりの声」となり、100人に2人しかいない偏差値70超えの人間の声を聞く機会は少ない(偏差値60以上は100人中16人いる)。
耳を傾けるべきは偏差値60の人間の勉強法より偏差値70を超えた人間の勉強法であるはずなのに。
こう考えると、偏差値70超が3人いる私の塾はレアであるなあ。
(副室K注:さりげなく自慢してるのか?)

もう一点、気をつけていただきたいことがある。
現代文の「内容を読み取らなければ・・・」や数学の「センス」に通じるものだが、教育についてモノを述べる人間が、どれだけ分析し、どれだけの指導経験があり、どれだけの実績があるかである。
現代文の内容の読み取りも数学のセンスも、できるに、あるに越したことはない。
しかし、どうやったら読み取れるのが、万人が読み取れるようになるのか、センスがなかったらどうするのかは別問題なのだ。
それらができない生徒に対し、どのような対策が打てるかが大切なのである。
中学生のときの国語や数学の成績が「2」だった子に、内容を読み取れだの数学のセンスを磨けだのと言うつもりなのか?
それができなければ大学はあきらめろと?
つまり、偏差値70を超えているだけではダメで、自分の主張を裏付ける理論と客観的データを持っていなければ、「真実」は語れない。
理論もデータもない主張はタダの独りよがりであり、2ちゃんねるでも「ソースは?」と言われ一蹴されてしまう。

少なくとも、私と副室Kならこれらの疑問に答えられる。
英語・現代文・数学において何が最も大切で、何をすべきで、どのくらいの時間がかかるかを答えられる。
だから胸を張って「真実」をタイトルにしている。
耳障りのいいことばかり言ってはいないと思う。

では、ここまで論理矛盾がなければ各科目論へ進みたいと思うのでありますが、いかがでしょうか?
(副室K:まあ、だいたいよろしいでしょう)

では、つづく






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2012年7月12日木曜日

なぜ小論文か

とある原稿の締め切りに追われていた私は、youtubeにも飽きて、何気なく河合塾の偏差値ランキングを見ていた。(副室K注;っんなことしてたのかよ!)
すると、慶応SFC(総合政策)の偏差値が72.5に上がっているではないか!
それを見て、あいつ(K嶋)は本当にがんばったんだな、と思い出した。

入塾のとき、「慶応と早稲田とマーチとセンターと、あれもこれもと考えると全滅しますよ。第一志望に集中してください。だめなら浪人です!」と言い切る私に、お母様はたぶんドン引きしていらした。
しかし結果はその言の通り、法政には合格したものの立教3学部全滅(偏差値65弱)、早稲田滅(偏差値65強)、しかし小論文と英語のみでSFC(総合政策)=偏差値72.5に合格した。
英語が7割に満たなかったため、「小論文で受かったようなものだ」と話していた。

M上の例を以前ご紹介したが、K嶋も負けないくらいしつこかった。
K嶋もM上同様、納得するまで帰らないヤツだったのだ!
ときには23時過ぎに現れ、時間無制限。
議論は果てしなく、喧々囂々。
周りからは喧嘩をしているようにも見えたらしい。
総合政策の小論文では、多数の論文を読んでそれらの共通項を抽出しなければならない。
その点でK嶋はしつこく食い下がっていたし、K嶋の指摘で私が意見を変えたこともあった。
厳しい採点もした。100点満点で40点という点数をつけたこともあった。
M上とダブる。本気だと、誰でもそうなるのかもしれない。
はっきり言おう。かなり・・・
(副室K注;そのへんにしとけよ・・・)

・・・さて、いいかげん本論に入ります。
AOや推薦の勢いはとどまるところを知らず、小論文が「マイナー科目」「現代文のついで」「対策なんてできない」という地位から、一つの必要科目としてクローズアップされてきた。かもしれない。
ともかく、漢文や地学や倫理よりも受験科目とする学生は多いのではないか。
AOや推薦なら理系文系関係なく課されるし、大学だけでなく短大や専門学校入試でも必要だから尚更であろう。
資格試験や公務員試験に論文が課されるのも周知の事実だ。

ではなぜ、これほどまでに小論文が流行っているのか。
推薦だろうがAOだろうが、学科試験を課せばいいではないか、と思う。
それなのに、慶応大学や国公立大学を筆頭に、学科試験に加えてわざわざ小論文を課す学部がある。
国公立後期では、なぜかほとんどの学部で小論文が出題される。
繰り返すが、なぜ今、小論文なのか。
もちろん理由があるのだろう。

小論文の添削をしていると、当然ながら上手い、下手がある。
それではどのような点で上手いか下手かを感じるかといえば、一番のポイントは「全体的な統一感」である。
これを「論理力」などという人が多いかもしれない。
が、私が言いたいことと論理力は似てはいるが、ちょっとだけ違う。
論理は、ABBC、だからAC、というだけのことである。
「タバコは体に悪い。体に悪いことはやめるべきだ。だからタバコはやめるべきだ。」となる。
このように書けば無難で、平均点はもらえる。
まあ、この論理が破綻していればまともな点はもらえないのだから、最も意識しなければならない点ではある。
が、それでもこれだけでは、「上手い」と思うには至らない。
論理的に正しくても、主張が分かりづらい文章はある。

たとえば、「風が吹けば桶屋が儲かる」という話は、論理的には正しく?ても全体としての統一感に欠ける。主張がボケてしまうし、無理があるように感じるのだ。

一読して納得してしまう文章には、全体として統一感がある。
ラーメンに例えよう。
上手いラーメンは、一口食べただけで「うまい」と感じる。
スープには豚骨・魚介類・野菜などが使われているが、それらは「うまいスープ」という目的のために統一感を持って結びついている。
さらに麺・具材も「うまいラーメン」のために調和している。
しかし豚骨と魚介の間に論理があるかどうかは分からない。個人的にはどちらでもよい。
文章も同じで、論理はともかく、すべての段落・文・文節・語句が全体として統一感を持ってはじめて、上手な文章に見えるのである。
うまいラーメンも、一つ具材を欠けば間の抜けた味になることがあるし、余計な具材を足せば不味くなってしまうかもしれない。
小論文は、なんとラーメンだったのだ!

さて、ではどうすれば「うまいラーメン」を作れるか、じゃなかった「上手い小論文」ができるのか?
そのためには国語の語彙力も必要だが、圧倒的に数学の力が要る。
ABBC、だからACという文章を書こうとしたときに、むやみにDEを登場させるのではなく、書くことすべてをABCと結びつけ、Aの補集合(反対意見)や、Bの関数や図形(具体例)を書くと上手い文章になる。
ところがABCから離れたり、Aの補集合やBの関数を間違えたり、それがABCと結びついていないように感じさせてしまう文章は、「下手だなあ」と思われてしまうのである。
このように国語(小論文も含む)には、どうしても数学の力が必要なのである。

もし知性に数的思考力を含むなら、小論文には書いた人の知性が現れてしまうことになる。
書いた人に数的思考力があるかどうかが、モロに出てしまう。隠したくても隠せない。
だからこそ、入試で積極的に課されるのだろう。
こんなブログを書くときですら、私だってボロが出ないよう必死なのである。

youtubeでお笑いを見ていると、面白い漫才は必ずと言っていいほど話題が統一され、オチも最初のつかみに関連付けられていることが多いと感じる。
私は、そんな芸人の漫才が好きだ。サンドウィッチマンとか、ナイツとか。
(副室K注;仕・事・し・ろ・よ)

追伸:
平安貴族は、ホントかウソかしらないが、文(ふみ)で恋愛していたという。
現代でも、ネットで恋愛が始まることもあるらしい(私は信じられないが)。
文章に知性が現れる証拠だろう。
・・・上手い文を書けると、モテるのか?
・・・ということは、私の文は下手なのか?







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2012年7月5日木曜日

守・破・離

茶道や武道には、「守・破・離」という言葉がある。
「守」とは師の教えを忠実に守って型を覚えること。
「破」は師の型を完全に習得した後、視野を広げて試行錯誤すること。
「離」は試行錯誤の結果、新たな型を生み出すこと。
と理解している。
一つの「道」の、修行の段階を表す言葉である。
…もし間違っていたら教えてください。

さて今回、言いたいことはすでにバレバレであろう。
「守」においては、

MJや副室Kは知識と型(思考方法)における師であるから、最初は真似しろ。

・真似のできないうちに持論を披露するな。

・文句はやってから言え。

と言いたいだけである。
が、それができれば誰も苦労はしないのである。
いわんや「破」をや、である。
(ここまで問題提起)

(ここから具体例)
さて、私ことMJ20代の頃、ゴルフを教えてもらったことがあった。
私にゴルフを教えてくれた人は、すなわち私の師である。
ところが、師の真似をしようとしても、どうしてもできない。
要はヘタクソなのである。
私は、こう見えても運動神経が悪いと思ったことはない。
高校の部活では県大会ベスト8まで進んだし、バッティングセンターでは140kmの速球を打ち返すことができた。カーブだって打てる。
車の運転も得意だし、水泳も好きだし、高校時代はクラスを代表して駅伝大会にも出た。
大学時、ゲーセンでパンチ力を測定したら、サークルで一番だった。
そういえば、バック転もできた。
パチスロではビタ押しという高等技術ができて、かなり儲けた。
それはともかく、だからこそ、ただの止まっているボールをまっすぐ打てないことはショックだった。
いくらがんばっても、師からOKは出なかったのである。

(ここから転)
「守」は真似ることである。
よく分析すれば、私が得意なのは、単に動体視力や筋肉や肺を使うことであった。
師は常に、私に対して「力を抜け」とアドバイスしてくださった。
ところが運動に際して力を抜くという経験などなく、もっと言えば運動で手加減してはいけない、筋力を常にフルパワーにして行うのが運動だ、という観念が私にはあった。
その固定観念がゴルフ上達の、「守」の邪魔をしていたのだと、実は最近になって、やっと気づいた。
私は真似をしていなかったのだ。

(ここから結)
真似るだけと言うけれども、完全に真似るためには、固定観念を捨てなければならない。
固定観念は、真似だけでなく、コミュニケーションにおいても障害となる。
師の真似をしたり、人の真意を発見したりするには、邪魔なものは取り払わねばうまくいかないのだろう。
体力を過信した私がゴルフがヘタクソであったように、自分のやり方や主義にたとえ無意識でも固執すれば、師の真似はできないのだろう。
そして固定観念を取り払うには、謙虚になるしかないのだろう。
ところがやっかいなことに、謙虚になるということは、これまでの自分のやり方や考え方を否定するということでもあるのだ。
人は誰でも、自分を否定されれば不愉快になるし、自分を否定する人間は敵であるとも見なす。
本当に初心者ならば謙虚にもなれようが、多少の自信のあるヤツが謙虚になることは、実は相当難しいのである。
その点こそが「守」の関門であり、勉学の上達の障害であろう。

副室Kも勉強法の真実ブログの中の「副室Kの言いたい放題」で酷いくらいさんざん書いている。
「中学の数学ができたくらいで高校数学ができると思うな」とか、「ぶっこわす」とか。
それは真実だったのだ。


受験においては、MJと副室Kの真似ができれば、それだけで偏差値65になってしまう。
そのため、「破」や「離」が必要な場面はほとんどない。
逆に言えば、師ができることは「守」までであって、「破」を教えることはできないのである。
ゆえに、私たちは「偏差値65までは引き上げられるが、その先は本人しだい」と言い続けている。
まず、「守」を。
つらいが一度ぶっ壊れて、真似をしてくれ。

もしかしたら、ブログのタイトルも「勉強の真実」にするべきかもしれない。


エピローグ
受験においては「守」がとても大切で、社会に出てからもそれは変わらない。
しかし、社会に出ると「破」も「離」もどうしても必要になるのだ。
なぜなら、時代は変化するからだ。
そのことは社会で活躍されている親御さんが一番よくご存知であろう。
今よいとされていることが、10年後、20年後、30年後にもよいとされるかはまったくわからない。
今は安全安心とされていることが、実は危険なのかもしれない。
基本的な型は同じであっても、異なる価値観の社会が訪れるかもしれない。
社会は必ず変遷してゆく。その社会を生き抜く力は、「守」だけでは得られない。
自分で観察し、自分で考え、自分で決断する力がどうしても必要なのだ。

そういうわけだが、受験生諸君はまずは「守」ができるよう、謙虚になりなさい。
そして「守」ができて偏差値65を超えたら、型を破って偏差値70を目指して欲しい。
一科目でいい。超えるよう努力してもらいたい。
偏差値65を超えることができなかった受験生諸君は、大学や専門学校に入ってから、「破」と「離」をぜひ意識して欲しい。
激動の社会を生き抜く力を身につけること。
それこそがMJと副室Kの願いである。


では。今回の記事は小論文の参考にするように。






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2012年6月5日火曜日

勉強の素地とは何か?


いきなり引き合いに出して申し訳ないが、勉強法の真実ブログでも再三登場したK君が、東京理科大に進学した。
残念ながら第一志望には手が届かなかったものの、その努力は立派だったと思っている。
浪人しても…と言っていたK君だったが、興味のある学科だということなので安心した。

中1の頃、体がちっちゃくって、80分の授業をフルに受けられず、40分週2回に分けたことを何よりもまず思い出す。
中学時代、3と4混じりの成績からオール5まで伸びたが、高校進学後は数学で苦しんだこともあるK君だった。
それでも彼には夢があって、その夢をあきらめることはなかった。

高校時代、私たちには再三苦言を言われていた。
ちょっと勉強をサボるとすぐできなくなる。
独断で勉強法を変えるとすぐ偏差値が落ちる。
決して、目から鼻に抜けるような思考力の持ち主ではなかった。
詳しい合格体験記は副室Kに委ねたいが、K君を見てきてつくづく、頭のよさは後天的なのだと痛感する。

私もK君も、そして勉強法の真実ブログに登場した受験の成功者たちも、ほとんどの人間が先天的に(遺伝的なのか突然変異なのか)知能指数が高いわけではないことに今更ながら気づく。
極めて高い偏差値の大学(慶応、早稲田、ICU、上智、旧帝大など)に合格した生徒たちのほとんどが、だんだん登りつめたというか、長い年月をかけて偏差値を上げていった。
決して半年や1年で目標達成をしたわけではない。

ちなみに、現在アシスタント講師をやっている元生徒のFなんぞ、副室Kの高校合格体験記によればまるっきり好青年のようであるが、大学に入った途端に本性を表し、青春を謳歌している。留年上等とも言っていた。
生徒からは「こわい」「目を合わせたら殴られそう」と面と向かって言われている。
決してそんなことはないのであるが……
まるで私の大学時代を見ているようなので、私のようにならないよう毎日必死に洗脳しているが…
ちなみにFは、私立では日本一の偏差値を持った大学の経済学部の学生なのである。
受験生時代は、たぶん私立文系では日本一努力をしていた。

こんな生徒たちを見てきた私だから、確信を持って言えることがある。
元々頭のよい人間なんてほとんどいないし、勉強ができるようになるような素地を元々持っている人間もいない。
まして、私も高偏差値の生徒たちも、決して頭がいいとは思えない。
高偏差値の子の勉強姿勢は、実に泥臭いのである。
英単語帳を300回読んだ、DUOを500回聞いた、という話を”普通”にしている。
「覚えた」と思っても、模試でA判定が出ても、忘れるのが怖くてついつい毎日英単語の勉強をしてしまう。
泥臭いだろう?


…蛇足かつ独断的な感想だが、先天的に知能指数が高い人間は、暗記力が“異常に”よい。
暗記が得意、なんてレベルではなく、尋常ではない暗記の量とスピードを持つ。
例を挙げるなら、高2NewCrown(ハイレベルな英語の教科書)を一読しただけで完全に暗記してしまうのである。
そういう人間は労せずして東大や医学部へ行くので(本人たちは努力しているつもりであろうが)、こんなブログは読んでいない。
MJのように、聞いた先から忘れてしまう人にこそ読んでいただきたい。


さて、閑話休題。
勉強法の真実ブログの“後天的に身につく頭のよさ”では好き放題語った私だが、定義すらしていないことに今更ながら気がついた。
素地って何?
頭のよさって?
定義をしなければ。

えーと、
素地とは、頭がよくなるために必要な、当人が持つ条件である。
頭のよさとは、情報を取捨選択し、目標を達成するために必要な手段を選んで実行できる能力である。
としよう。

要は、素地は条件で、頭のよさは結果であるらしい。


ここで一気にトーンが変わるが、素地の大切な要素の一つは意欲である。
意欲は、誰かが奪いさえしなければ、人は誰でも持っているものだ。
意欲のない人間はいない。いたらその人は廃人である。

大多数の子どもは、勉強ができないよりはできるほうがいいと思っている。
勉強がわからなくてもいいや、できなくてもいいやと思っている子がいたとしたら、私が親なら、勉強で身を立てる道をあきらめる。他の道を探す。
高校すら行く必要がないと思う。
しかし高校受験が視野に入る時期になると、それは子どもによっては小6だったり中3だったりするが、大多数の子どもは勉強への意欲を持つ。もちろん個人差はあるが。
そのとき、そのときこそが、素地を身につけるチャンスなのだ。
もちろん、普段から勉強ができるようになりたいと思っている子も多い。
そういう子は、できなければ悔しいから人に聞いたりするし、自分で問題集を解いたりする。
いずれにせよ、そのように じ・ぶ・ん・か・ら 勉強する気にならないと、頭がよくなる素地はできない。
勉強を“やらされて”いるうちは決して素地ができないし、素地ができなければ当然、頭はよくならない。

では、どのようになったときに素地ができたと言えるのか。

素地というと、基礎のことだと思って漢字や計算をやらせたり、思考力だと思ってパズルをやらせたりする方が多い。
また素地とは忍耐力のことだと思って、やたら分量をやらせたりする方もいらっしゃる。
私の主張する“素地”は、それとは異なる。
素地とは、「こうなりたい」と願ったときに、「こういうふうにすればいんじゃないかな」と考え、その方向に実際に進もうとする姿勢があることだと言いたい。
さらに、できたら嬉しい、できなければ悔しいという、素朴な感情を持てる状態だとしたい。
素地とは「リアルな意欲である」とも言えるだろう。

このように考えると、素地は普通、ほとんどの子どもが持っているのではないだろうか。
何も特別なことではないのだ。
勉強の能力と、その素地は無関係である。
そうしたらなぜ、勉強に対してやる気のない子がいるのだろうか。

原因をいくつか考えてみる。
1、まだ素地が育っていない=危機感がない
2、勉強をやらされすぎて、勉強が単なる苦痛、もしくはルーチンになっている
3、やってもやっても成果が出ないので、やっても無駄だと思っている
4、勉強に意味を感じられず、または他のことに興味がありすぎて、勉強の重要度が低い

1(危機感がない)について
たしかに、危機感が出るのが遅ければ遅いほど、成績は低くなるおそれはある。
しかし、無理にやらせても2(苦痛)や3(脱力感)になってしまう可能性があるので、やらせても結局同じである可能性が高い。
だったら無理をさせないのがベターだろう。

2(苦痛になっている)について
危機感がないうちにやらせすぎたり、レベルや興味に合わないことをやらせてしまっている。
続けば無気力になったりするおそれがある。
脱却する方法は強制しないことである。
やりたければ、やれ。やりたくなければ、結果は受け止めろ、と言ってあげることだ。

3(脱力感)について
かなりヤバイ症状。勉強に対する考え方や方法をリセットしなければならないが、長年の思い込みが強く、なかなか考えを変えられないことも多い。

これらは勉強に限らず、運動や芸術に関してもまったく同じことが言えるのではないだろうか。
例えば小さな子に、運動の基礎と称して単調な作業ばかり2時間もやらせたら、そりゃいやになるでしょう。
それと同じことを勉強でやらせていないか?
お悩みの親御さんはぜひ客観的にご自分を見ていただきたい。

私的な名著「ドラゴン桜」でも、運動や芸術などに熱中できた子は、勉強でも成果が出る可能性が高い、と言っている。
素地とは意欲のことなのだから、そのとおりだろう。
今勉強をしない子でも、いつか勉強する日が来るかもしれない。
その日を待つことが、実は最良の選択肢であるという結論になる。
確かに、待っていても勉強をする日が来ない子もいるだろう。
それは、残念ながら(本当は残念ではないはずだが)あきらめて他の道を探ったほうが、精神的にも将来の職業選択のためにもいいと思う。

親に必要なのは、ただ見守るという覚悟である。
どのような結果も、自身や子どもを非難せずに受け止める覚悟だろう。

それが一番難しいのだが……







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2012年5月31日木曜日

戻ってくる子

M上のことを書いていて思ったことがある。
ウチは卒塾生がよく訪れてくれるのだが、これはどこの塾でもそうなのだろうか?

当たり前だが、高校生にとって、塾や予備校はメリットのある場所でなくてはならない。
メリットがなければ、たとえタダでも通わないであろう。
例えば、成績優秀な高3が浪人してしまった場合、多くの予備校が特待生として受け入れている。
しかし、わざわざお金を払って、行きたい予備校や塾へ行く浪人生はとても多い。

私の塾では中3で一旦辞めてしまう子も多かったのだが、戻ってくる子もこれまたかなり多く、結果的に高校生主体の塾となっている。
講師と多くの時間を共有し、でも勉強は結局一人でやるものだと理解し、それでも困ったとき、最終的には“メリット”のあるところへ来てくれたのだろうと自画自賛している。
特に小論文は信頼してもらっているようで、推薦・AO狙いのみならず、一般受験でも小論文に抵抗のない子が多くなった。

ところで私は、いつの間にか小論文の実績を積んでいた。
一昨年度には慶応経済、昨年度は慶応SFC2科受験)に合格者を出している。
慶応の小論文は非常に高度で、やっつけるのはとてもワクワクする。
そうそう、早稲田社学の編入試験に合格した子もいた。競争率18倍だった。
どこまで役に立ったのかはわからないが…。

小論文では、書く技術を身につけるとともに、専門分野に進む高校生は専門家になることの自覚を持つことから始めるべきだ。
福祉なら福祉のプロに、医療関係なら医療関係のプロに、法学部なら法律のプロになるべく、知識を仕入れ、ふさわしい思考ができるようにならなければならない。
それらの基礎課程を4~8時間踏み、実践的な演習へと移るのが私の小論文講座である。
つまり、ごく普通である。
ここまで進めばたいてい、受験生平均点くらいは取れるようになる。
受験生平均が取れるということは、競争率2倍なら合格するということである。
ここから先、トップクラスへの道に入ったときは国語の能力も必要になるし、人生経験や数的思考力がモノをいうこともある。
また、小論文は自分の言いたいことを書けばよいのではなく、読み手がどう受け取るかが大事なので、そのための技術を伝える時間が必要だ。
高度な小論文では、出題者の意図を読み取り、問いの条件を完全に満たしていなければ合格点は取れないようになっているのだ。

…小論文の技術についてはまた別のコーナーで書くとして、話を元に戻す。
えーと、何だっけ。

そう、高校生になって戻ってくる子の話だった。
思い出したのは、“勉強法の真実ブログ”では副室Kが書いていた子。Sだ。(“副室Kの言いたい放題・驚異の中学生”参照)
Sは小6から、主に副室Kが担当していた。副室Kとは友達親子みたいに仲がよかった。
最初は中受。私立中に入り、高校は外に出たくて高校受験をした。
高校に合格したところで、「ひとりで勉強してみる」と言って塾を辞めた。
高校では陸上競技で活躍していたが、AOで難関ICU(国際基督教大学)を受験したいと私を訪れた。
エントリー課題が出ており、エッセイを書けというものだが、それを評価してほしいとのことだった。
私は一読し、言葉を詰まらせた。添削ではなく、求められているのは評価だ。
MJ2倍なら受かる。競争率は何倍?」
S「3倍です。」
MJ「・・・」
しばらく沈黙してしまった。
しかも期限までそう時間はない。
S「どこがいけないんですか。」
MJ「はっきり言うが、エッセイになってないんだよ。」
S「・・・」
はっきり言い過ぎたかもしれない。キツかったかもしれない。空気が重い。
MJ「そもそも随筆というものはだな、(・・・くどいので中略)。向田邦子のエッセイを読んでみて、自分のと比べてみぃ。添削したものはメールで送るよ。」
それだけで、Sは帰っていった。
その日のうちに、私は添削したものをSに送った。


後日、Sは昔一緒に通っていた友人と挨拶に来てくれた。
ICUには合格したと聞いていたが、エッセイをどう直したかは聞きたかった。
MJ「送った添削、参考になったの?」
S「使わなかった(キリッ)」
MJ「・・・」
S「でも、直した。」
昔から不思議な日本語を上手に使う子だった。
よくわからなかったが、向田邦子は読んだらしい。


大学受験では、人生を賭けているような感覚に陥ることがある。
しかし実は、大学名というレッテルが人生を左右するわけではなく、大学受験に向けて努力した時間、精神、得た知識、思考力が、そのまま人格と化したり、考え方を支配したりすることもある。
その意味では、大学受験時の“努力”が人生を変えることもあるだろう。

Sは、偏差値的には、中学より高校、高校より大学、とステップアップした。
Sに限らず、私たちが担当した子は、高校合格で塾を辞めてしまっても、その後の進路をしっかり決め、迷ったりせずに目標に邁進して結果を出す子が多いと思う。
抽象的な言い方をすれば私たちの精神的な部分、もう少し具体的に言えば思考力を、自分に必要な分だけ、メリットがある限りで受け止めてくれたのではないか、と思っている。
高校合格で塾を辞めたのに、「○○大学に合格しました」「○○の専門学校に決まったよ」と報告に来てくれる子の、なんと多いことか。
また、「ここで講師をやりたい」と言ってくれる子のなんと多いことか。
そういう子たちは、すぐに社会に出しても大丈夫だと思わせてくれるくらい、たくましく、芯を持ったように見える。







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2012年5月26日土曜日

なぜ勉強するのかリターン1


先日、元・生徒に頼まれて(強引に捕まえられたのだが・・・)、エントリーシート(ES)を考えた。
そう、就活である。

元・生徒の名前をM上(仮名)としよう。
高1で入塾し、高3までいた。
そう、たしかに“いた”が、部活動で忙しく、スケジュールは不定期だった。
テスト前になると現れ、疑問点が完全に無くなるまで追及する(講師を捕まえて放さない)ヤツだった。
はっきり言おう。ちょっとウザい。

それは大学4年生の今も変わってなかった。
メールで10通くらい「これでいいか、これでどうだ!」という感じで捕まり、とどめにはファミレスで徹夜させられた。
供述調書ができるまで寝かしてくれない刑事みたいだった。
はっきり言おう。かなりウザい。

ここで少々弁護を。
就活のESを人に手伝ってもらうことに不快感を覚える方もいらっしゃるだろう。
しかも私は一応、国語と小論文の専門家のはしくれだと自称している。
そんな人間を捕まえて書けば、ESは通るに決まっているではないか、と思われるだろう。
その通りである。
だから、私は書いていない。
あくまでも、M上の疑問に答えただけである。
M上には書きたい、伝えたいことがある。
しかし技術が未熟なおかげで、読み手に100%伝わらないのだ。
読み手は私と同年代か私より年上の人で、社会で厳しい仕事をしているはずだ。
そんな読み手に対し、自分という人間を伝えることは、大学生には難しいだろう。

私「これは削除したほうがいいなんじゃないか?」
M上「いや、これはどうしても入れたいんです。」
私「ならばこういう書き方がいいんじゃないか。」
M上「それだと俺らしくなくなっちゃうんです。」
こんな問答がずっと続いた。
はっきり言おう。とっても・・・。


夜明けの明星とともに、とてもM上らしいESが出来上がった。
正直、文章は高3レベルである。
しかしその他の努力の甲斐もあってESは通り、M上は最終面接に進むことができた。
そこにはたった4人、M上以外は早慶上智だったという。
後に役員に言われたそうだ。
ESは君がNO.1だった」と。
M上は法政大学である。

私がM上のESに関わった理由、それがすなわち、「なぜ勉強するのか」を考えることに繋がる。
前の”勉強法の真実ブログで、私は、
「勉強はしなくてもよい。勉強したければすればいい。」
「勉強は、スポーツや芸術と同じ位置づけである。毒にも薬にもなりうる。」
「勉強より情緒(EIEQ)のほうが大切である。」
「勉強法の両輪は、忍耐力と思考力である。」
「頭の良さ(思考力)は、後天的に身につく。」
などと述べてきた。
実はそれらを体現していたのがM上だったのである。

M上は小さい頃からずっとサッカーをやっており、その実力は群を抜いていたという。
中学時代の学業成績は振るわなかったが、中3のときに猛勉強し、法政二高に入った。
高校で怪我をするも、当時1部リーグだった法政大サッカー部のセレクションに合格した。
レベル的にはJリーグの一歩手前であろうか。
文武両道といえばそれまでだが、要は目標ができると猛進するヤツなのである。

M上は人当たりがよく、それをESでも前面に出していた。
しかし実のところ、“人当たりがいい”なんていうレベルではなかった。
“自分がいる場が暗いなんてありえない。俺が空気を変える。”
という意気込みがあったようだ。
目上には失礼にならないように、気を遣っているのを悟らせないように気を遣う。
話をしていると、あるとき急に懐に飛び込んでくる。
周囲の観察を欠かさず、思いやりに余念がない。
正に、
「勉強したいときに勉強し」
「スポーツも勉強も同等に位置づけ」
「情緒が高く」
「忍耐力と思考力が鍛えられ」
ている。

性格、と言ってしまえば話は終いである。
しかし、“○○へ行く。○○になる。”
そう思った途端、とことんまで努力することは、努力できることは、果たして性格のみで為せるワザなのだろうか?
今回のESは、M上の能力を超えてしまっていた。
当人にもそれが分かっているからこそ、私のところに来たのだろう。
しかしそれでも、彼は安易な手段(=代筆)を選ばなかった。
こうして、勉強の苦手なM上が、とてつもなく勉強ができる学生たちに迫ったのだ。

中途半端な思い入れであれば、私も適当にアドバイスして終わらせていたかもしれない。
ESなんて、人に書いてもらうものでは決してないからだ。
しかし、そこ一社しか受けないという彼の意気込みと、自分が生まれてきた意義まで考えて思い描いた将来のビジョンを聞かされ、私は負けた。
熱を持つ人間は他に感染させる。
私が年甲斐もなくESなんぞに付き合ったのは、技術的に拙い彼の書いたESが、どう評価されるかを見たかったからに他ならないだろう。
だからこそ、私は彼の申し出を承諾した。
彼のESすなわち彼の生き方が大企業においても評価されたことで、今の社会もまんざら捨てたものではないと思える。

いつもいつも、自分の能力以上に努力してきたヤツは、これからも能力以上の壁を越えようとするのだろう。

なぜ勉強するのか・・・

壁を越えたいからだろう?


エピローグとして。
彼には現在高3の妹さんがおり、今の塾に通っている。
その妹さんの何気ない一言を、このテーマの締めくくりとさせていただく。

「ワタシ、推薦で○○大学に行くの。」

“行きたい”や“行けたらいいな”ではない。
“行くの”だと。
絶対に行くんだと。
ああ、兄妹、似てるわ・・・







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2012年5月23日水曜日

ブログを移転再開しました


ブログ移転にあたって
この度、私ことMJは、スーパー副室Kとともに“プロフェッショナル個別”なるものを立ち上げた。
このブログは塾の宣伝ではないので、塾の名前は内緒にしておく。
ただし場所は当然、港南台である。
まあ私のことなので、そのうちうっかり塾名を書いてしまいそうだが・・・
旧ブログはこちらです⇒http://yokohamatotal.seesaa.net/

さて、経緯は省略するが、納得できる方針で授業ができるようにした。
要はプロ個別にしたわけだが、勉強法の真実ブログでも書いた“なぜ勉強するのか”を徹底的に追及した結果であった。
ブログを移転して再開しようと思ったのも、私自身にとって新塾立ち上げは一つの区切りであり、世の中においては転換期だと感じたからだ。(副室K注;なんと大袈裟な・・・)
私は、政治・経済の変化は必ず中高生にも影響する(というより、多感な中高生により影響が出る)という持論を持っているのだ。

トー・・・もとい、現在の塾では、基本的に私と副室Kができる範囲で授業を行っている。おかげさまで、もう空きはわずかである。
家賃や備品費を極限まで低く抑え、授業料も極限まで抑えた。それでもお茶とお菓子は常備し、空腹のまま集中力を失うことを避けている。ために一般的な個別塾の外見や内装とはかなり異なってしまった…(勉強法の真実ブログ始まって以来、初の写真)



それもこれも、「塾は“人”である」という理念のためである。
自然、来てくださる方は、私と副室Kに“賭けて”下さる方ばかりとなった。
こんなにありがたいことはない。

そのようなわけで、“なぜ勉強するのか”を追及しよう。(副室K注;ぜんぜんつながってないし・・・)
では、文字数も多くなってきたので、次回から!


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