2013年2月14日木曜日

中学生へ2


中学生の学力に限界は無い。

前回の記事で、「中学生でも、大学受験を見据えて勉強すべきだ」と申し上げた。
今回はさらに発展させ、精神面について述べさせていただきたい。

中学で学習する内容は、社会に出れば一般常識に過ぎない。
いきなり「何言ってんだコイツ?」と思われそうなので根拠を述べる。
就職試験などでは「一般常識」が出題されるが、その多くが、実は中学の内容で構成されている。
「標準時と日本の時差は?」とか「DNAの和語は?」なんて問題が「一般常識」で出題されるということは、中学の内容は「常識」だということだろう?
それくらい、中学校の学習内容は基礎的なのである。だって義務教育だし。

と、何も中学内容の勉強を馬鹿にしようというわけではない。
前回お伝えしたように、中学の勉強には大学受験に通じる大切な分野がある。
言いたいのは、中学内容の勉強ならば、誰でも(100%とは言わないが)、努力すればすべて理解でき、覚えられ、身につけることができる、ということだ。
大学入試と比べればよくわかる。
大学入試を経験した方なら誰でもお分かりであろう。高校入試と大学入試では、その量と習得にかかる時間が段違いであるということを。

話が少し逸れたが、特別な事情がない限り、中学の段階でつまずくということは、基本的にはありえない。
ではなぜつまずく生徒が多いのかと言うと、よく「勉強法が間違っている」という人がいるが、実は単なる努力不足、やる気不足である場合が多い。
こう言うとさらに非難が轟々と押し寄せてきそうだが、それでも奇麗ごとは言わない。
だって、もしつまずいたと感じたならば、克服するまで努力すればよかったではないか。
もし「つまずいた」とすら感じなかったのならば、それだけ勉強に対する意識が不足、つまりやる気がなかっただけではないか。
「だって、誰にもきけなかったんだもん」「先生に聞いたけどわからなかった」という声も聞こえてきそうだ。
「誰にも聞けなかった」って、学校に行ってないのか? ならば仕方がない。それは「特別な事情」だ。
「先生に聞いたけどわからなかった」って、何でわかるまでしつこく聞かなかったの? わかったフリをしたの? その先生でわからなければ、なぜ別の先生に聞かなかったの? なぜわかるまで参考書を読まなかったの? なぜ友達に聞かなかったの? なぜ、ネットで調べなかったの? なぜ、わからないまま放置したの? 塾へ行っているのならなおさらだよ。
昔、サイボーグのような講師(今は東大なんとか研究所にいる研究員)も断言していた。
「チュウガクノナイヨウデ ドリョクシテモデキナイコトナンテ ゼッタイニ アリマセンヨ」と。

勉強に限れば、本当に、中学生には限界が無い。
すべては努力とやる気しだいである、と断言できる。
サイボーグも、中1のときオール3(2745)で、中3で3945にして柏陽に入った。
私も中1のとき2945で、中3で4145にして湘南に入った。
弊塾でアシスタントをしているKも、中1で3045で、中3で4245にしてサイエンスフロンティアに入った。
なぜ入れたのか?
それは、単に目指したからだ。
目指したから。それだけなのだ。
目指さなければ、当然、絶対に結果は手に入らない。
「アタシには無理だから~」「オレは○○高校でいいや」
それも結構である。無理に目指せとは言わない。
目標は個々にあっていい。
ただ、もし心の中に憧れの高校があり、そこに入れたらいいなと思う気持ちが少しでもあるのなら、その目標に対して嘘偽り無く努力をし尽くしさえすれば、必ずと言っていいくらい確実に入れるのだ、と言いたい。
目指す前に勝手に自分で限界を決め、なんだかんだと言って結局何をも目指さないのは、本当にもったいないことなのだ。
目指す。それだけで可能性が出てくるのに。

前回の記事にも書いたが、小学校からの積み上げが少なくても、中学に入ってからの勉強で充分に小学校内容はカバーできる。
小学校の復習を含めて中学内容を身につけるのはたしかに大変だが、脳の幼い小学生のときに理解できなかったことが中学生では理解できるということもよくある。
だから小学校で勉強が苦手だった場合も悲観することはない。ちょっと(ちょっとではないかもだが)たいへんになるだけだ。
だいいち、小学校の内容をすべて忘れずに覚えている中学生なんていないのだし。

ただ、現段階の成績が低ければ低いほど、また受験までの時間が短ければ短いほど、上位校を目指すのがたいへんになるのは事実だ。
現実的に「無理だ」と言わなければならない時間的リミットはある。
ただしかし私は、時間的に限界ではない限り、何かを目指して嘘偽りの無い努力をすれば、中学の段階でできないことなど絶対に無い、とだけは言いたいのだ。
中学内容など、まとめてしまえばたかが問題集5冊だ。1科目1冊だ。
それすらできないならば、おそらく大学は選べないし、就職試験でも苦労する。
たしかに「何かを得ようとすれば必ず何かを失う」のは当然のことで、勉強時間は必ず自由な時間を奪うだろう。ストレスもたまるだろう。
しかし、何かに向かって嘘偽りの無い努力をることは必ず自分の血となり肉となり、結果として成長した自分に出会える、ということを保証する。

私は、「勉強して後悔した」という人間に未だかつて出会ったことがない。
以前にこのブログに登場したM上は就職の最終面接でのことを次のように話した。
「最終面接はグループ面接だったんだけど、俺以外の3人は早・慶・上智なんですよ。で、『今までに一番がんばったことは?』って聞かれて、『正直に申しますと、やはり大学受験ですね。あんなにがんばったことは、それ以前にもそれ以降にもありません。』と3人が3人とも答えたんですよ。それ聞いて、俺は法政だし、いくらサッカーをやってきたって言っても、スゲーなコイツら、って思っちゃったんですよ。俺、勉強でそこまで努力したことなかったんで。」
勉強は決して強制されるものではないし、強制されても決して身になるものでもない。
あくまでも自分の意思で勉強しない限り決してプラスにはならないし、結果もまず、ついてこない。
逆に自分の意思でやれば、考え方や人生までも変えてしまうこともある。
成長するということは変化するということであるが、停滞することは退化を意味する。
成長しているときは生き生きとしているが、停滞しているとどんよりしてしまう。
このことから、人間は常に成長しなければならない生き物であると言えるが、成長するためには努力が必要である。
努力するためには目標が必要で、その目標は自分で定めたものでなければ努力もできない。
努力すれば成長した自分に出会え、毎日が生き生きする。
スポーツには才能が必要で、努力すれば誰でもM上のようになれるわけではない。
しかし勉強は、多くのデータが示すように、多くの人が口を揃えて言うように、才能は関係ない。
目標にふさわしい努力をするか、しないかだけなのである。
目標にふさわしい勉強をして、後悔することなど何一つないと言っていいだろう。
だからとりあえず、目標を高く持て。中学生の勉強に不可能はない。
自分が「どれくらい努力できる人間なのか」を、自分自身に真剣に問うてみてほしいと切に願うのだが、いかがなものだろうか。

追記
だからといって、詰め込みはいけない。思考力が大切。
あれも、これも、もいけない。1科目ずつ克服する。
本人がやる気なら結構だが、押し付けてもいけない。
長々と書いてしまったが、「あたしバカだから~」とか、「オレは頭悪いから~」とかを、努力をしないための言い訳に使ってほしくないのである。
「勉強したくないから~」ならよい。したくないものはしたくないよな。







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2013年1月30日水曜日

中学生へ


現在、大学受験生が今、最後の、本当に最後の追い込みに入っている。
そんな中でなぜ「中学生へ」なんていうメッセージを残したくなったかというと、ある高3が下級生に対し、「ホント、勉強しときなよ!絶対に後悔するから!!」と叫んでいたからである。
講師の単なる煽りとは、言葉の重みがまるで違う。

個別塾であるのに座席からパーテーション(しきり)を取り払ってからというもの、だれもが見知りとなり、会話が自然に増え、なんだか塾が部活のようになってしまった。
部長役の高3もおり、授業後にはゴミの後片付けまで高3たちがやってくれている。
次世代の高2も、順調とは言えないまでも受験色に染まりつつある。
中学生は高3がいると張り詰めた空気を察知してたいへんおとなしく、わずかな私語も慎んでいるが、いないと実にのびのびとしている。
このあたりはまるで部活の風景のよう。
そう、まるで「勉強部」なのだ。

で、真面目な話をすると、私も副室Kも、物事を逆算して考える癖がある。
「高3のときにはこういう状態になるのが理想だ。だから今はこれが大切だ」というように。
そんなの当たり前じゃないか! という声があちらこちらから聞こえてきそうなので、もう少しだけ詳しく。


まず、算数数学について。
塾の見解として、大学受験においては、数学は地歴公民(社会)より絶対的に有利な科目であるといえる(大学の私立文系学部入試の多くは数学or社会の選択)。
暗記量が少なく、概して言えばライバルも少ない。
特に私立文系受験なら数学を選択“できれば”ものすごく有利になる。”できれば”だ。
国公立受験なら数学は必須科目だ。
では、数学が“できる”状態とはどのような状態か。
それは、
代数では「等式の性質を駆使し、数式を自在に操れる状態」
幾何では「円・相似・三平方の定理を自在に操れる状態」
解析では「座標の概念を理解し、グラフ⇔式を自在に操れる状態」
だ。
つまり、計算は中1・中2、図形と関数は中3が肝心、ということになる。
数学は小学校から脈々と続く科目なので中学生ではすでに差が開いてしまっていると思われがちな科目であるが、実は中3の春までなら取り返しがつく。
むしろ、抽象的思考力が発達しきっていない中1で詰め込むよりは、中2以降にガンガンやったほうが伸びる場合もある。
小学校の内容に不出来があれば、復習すればよいだけである。
じゃあ小学校の算数はあまり大切じゃないの? と言われれば、実はそうかもしれない。
小学生で算数が苦手である場合、抽象的思考力が未熟である場合が多い気がする。
つまり、脳が幼いのである。
そんな段階に難しい算数を詰め込めば、算数嫌いになりかねない。
以前にもブログに書いたが、小学生は式など立てる必要はないのである。
答えさえ出せればよい。立式は中学生でやる。
で、中1・中2で等式の性質をフル活用した計算が出来るようになれば、中3の計算は余裕。
中3では図形と関数をリキ入れてやる。
文科省カリキュラムでは中3と数ⅠAはほとんど同じことをやっているので、中3で余裕なら数ⅠAは余裕。
数ⅠAが余裕なら、努力すれば数ⅡBも可能(これは余裕とは言わない)。
数ⅡBを克服したら時間次第で数ⅢCも可能。
こんな具合だ。
だから、逆算すれば、計算は中1・中2で等式の性質に。関数・図形は中3でリキを入れるのが正しい。
ただし、やはり難問には思考力が必要であり、小学生のうちから思考回路を身につけておくと有利なことは間違いない。


次いで、国語(現代文)について
国語なんかは小学校に上がる以前から脈々と続いている科目なので、根が深いと思われがちである。
付け焼刃の学習で成績が上がるとは思えない科目だが、私は「国語はテクニックである」を提唱しているので、国語は必ずしも積み上げの科目でないことをお伝えしてきたし、むしろ国語は数学に近いと言ってきた。
ただ、「国語はテクニックである」と言い切るためには大事な前提がある。
これもお伝えしてきたが、それは漢字である。
漢字が書けない、漢字の意味がわからない、ではテクニックの効果も半減してしまうのだ。
そして今回、国語についてもう一つ付け加えさせていただく。
テクニックの効果を倍増させるもの、それは「経験値」だ。
「経験値」は、いろいろなことを知ることで、またいろいろなことを考えることで上がる。
「経験値」が上がると、テクニックを使わずに解ける問題が増えたり、出題された文章の内容を読み取れることが多くなるのだ。
では、どのようにしたら経験値が上がるのか。
それには、たくさんコミュニケーションをとること、たくさん読書をすることだ。
まず、国語は「問いに答える」科目なので、相手と正しく応答できることが求められるのだ。
コミュニケーションの訓練相手は、コミュニケーション能力の高い相手が望ましい。
小さな子どもは身近な人の真似をする傾向があるので(特に必ず親の真似をする)、身近な人のコミュニケーション能力が高ければ、自然と子どもも高くなる。
大きくなってからは、子どもは学校や課外での活動でコミュニケーションの訓練をするようになるから、できるだけ人付き合いをしたほうがよさそうだ。
読書については、勘違いなさっている方も多いが、なにも活字のみの本でなくともよい。
マンガでもネットでも雑誌でもいい。
とにかく子どもが興味を持ったものはすべて与えるのが正解である。
直木賞作家で日本ペンクラブ会長の浅田次郎氏は、若い頃米を買う金で本を買ってしまい、食事にも事欠いたことがあったそうだ。それくらい、本にお金をケチってはならないのだろう。
ただ、読書をしたからといって現代文の偏差値が高くなるわけではないのでご注意を。読書はあくまでも、経験値を積むためのツールの1つに過ぎないのである。
だから、「ウチの子は本が大好きなのに国語が苦手で」という事態もよくあるのだ。
繰り返すが、読書は国語ができるだめの必須要素ではなく、有利になる条件の一部にすぎない。
まとめると、国語は1に漢字、2にテクニック、3に経験値なのだ。
逆算すると、小学生にしろ中学生にしろ、漢字をしっかり練習し、あとは経験を積め、ということになる。
テクニックはいつでも身につけることができるのだから。


英語について
数学は出来ること出来ない子に極端に分かれ、平均点付近の子はむしろ少ないという。
社会は平均点付近の子が最も多く、平均点から離れるほど人数は減っていく。
ところが英語はというと、出来る子が最も多く(満点はさすがに少ないが)、点数が下がるほど人数が減っていくのだ。
(↓参考URL:平成24年度 神奈川県公立高等学校入学者選抜学力検査の結果↓
http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/life/454693_749322_misc.pdf

英語はみんなが重要だと思っていて、みんなが力を注いでいるので、できて当たり前のようになっている。
逆に言えば、できないのは単なる努力不足であり、努力に比例してできるようになるのが英語の特性だろう。
では努力するとして、できるだけ効率のいい努力をしたほうがいいと思う。よね。
最も効率のいい方法は、英語を好きになることだ。
塾で統計を取ったところ、英語の成績が偏差値60を超える子達は、ほぼ全員、高校時に洋楽を好んで聴いている。なんと、ただそれだけだったのだ。
そして英語に対する努力とは、“毎日”勉強し続けることなのだ。
英語の勉強を1日やらないと、3日分の英語を忘れるという。
だから英語は毎日、少しでもいいから勉強しなければならない。
ところが“毎日”となると、案外できないのが人間というものである。
だからこそ、英語を好きにならないと、とても毎日は続けにくいのだ。
もちろん、英語だって高3になってから必死でやれば得意になる可能性はある。
しかし、その暗記量たるや、とてもじゃないが好きでなければ暗記しきれない量なのだ。
(好きなものは自然に覚えられる。好きならそんなに苦労ではない。)
逆算すると、中学で英語を克服できなかった場合、高3時には「英語を捨てる」という選択もしなければならない可能性もじゅうううううぶんにある。
さらに言えば、高2になっても英語に苦手意識がある場合、学校の定期テストでは英語を捨て、さっさと受験英語の学習に切り替えたほうがよい場合も多い。
英語は、「得意にならない限り苦しいだけ」の科目であるとインプットしていただきたい。


とは言うものの、それらが身にしみてわかるのは、多くは高3になってからのようだ。
しかしながら、親御さんや教師が「今勉強しないと後で苦労するよ!」と、先回りして勉強をするよう仕向けても逆効果になる場合も多いのではないだろうか。
子どもは通常、直近の未来しか考えられず、何年も先の苦労など見越すことはできない。
だからこそ、「今、何に最も力を注ぐべきか」を指導者が理解していることは、ものすごく重要なのである。
中1・中2なら計算、中3なら図形、という具合に。
あれも大事、これも大事と全部詰め込んではパンクする子もいるし、勉強も押し付けられるだけの味気ないものになる。
いたずらに目先の点数だけを追うのではなく、大学受験を見据えた指導をすることこそ、子どもはいきいきとするし、子ども自身が「何が大切か」を見極めるようになる。
それこそが弊塾の理想であり、そのために「高校生のための塾です」「中学生が入会されても目標を大学受験とします」と明言している。
中学の勉強はとても大切であるが、単に点数だけ取ることが大切なのではない。
詰め込みで高得点を取っていても高校で行き詰まることも多いという事実も、中学での学習姿勢がいかに大切かという真理を逆説的に示している。
やはり、中学生の間から大学受験を視野に入れながら勉強すべきなのである。


下級生は、上級生が勉強している姿を日々、今、まさに目の当たりにしている。
3になればあれくらい勉強するんだぞと、それが当然なんだの、と思っている。
たとえ兄姉がいても、兄姉は通常は勉強部屋にこもっていたり、外で勉強していたりするから、下の子が兄姉の背中を見ているとは限らない。
ならば、大学受験は自分にはまだ関係のない世界だと思っているかもしれない。
しかし、勉強部はちがう。部活なのだ。
“勉強”という共通した活動があり、“成績の向上”という絶対的なものさしがあり、“受験”という人生を賭けた試合があり、先輩がいて、OBがいて、指導者がいる。
そんな場所だから、高3の背中に数年後の自分を重ねてしまうことは自然なのではないだろうか。

高め合う仲間が集う勉強部  MJ
(俳句にしようとして何のひねりもなし。そして季語もなし)

勉強部の日常風景は、部屋の模様ではなく、子どもの作る空気のスナップだ。
(詩的表現にしようとして意味不明瞭)

そんな塾にしてくれた子どもたちを、誇りに思う。







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2012年12月29日土曜日

勉強法の常識を疑うその7~現代文・国語の常識と真実3


国語(現代文)の締めくくりに、いただいたお言葉を書かせてもらいます。

以前、“勉強法の真実ブログ”を読まれた方からメールで学習相談を受けたことがあった。
その方に、この記事を書くにあたって引用させていただきたい旨と、その後のお子様の様子を伺いたいと思って連絡させていただいたところ、引用は快く許していただけることと、お子様は意欲的に勉強中だとのお返事をいただいた。
たいへん恐縮です。

(メール相談をいただいた方の文章。途中省略があります)
「今まで聞いたこともない、はじめてのことばかりでビックリしています。
ブログの内容を読んでいて、とても共感することが多かったので思い切ってご相談させていただきましたが、知らない娘のことをよく考えて下さり、読んでいて納得することばかりです。本当にありがとうございます。」
(中略)
「娘に先生のメールの内容を伝えたところ、目をキラキラさせて…(中略)
国語のテクニックについては、まったく塾では教えてもらったことはないそうです。
文章の内容説明をしてくだり、『問題の答えは、この部分の内容からになりますね。』という感じのようです。だから、その時は『そうだよな、確かにそうだよな。』と納得して終了。
そんな感じで帰ってくるようです。
でも、また、問題を解くと、なんだか間違っている、どうして国語ができないんだろう?
という繰り返しです。
『テクニックがあるの?』という感じでした。
その後、娘は塾で○○の過去問を2回解いたのですが、小説と論説文の選択問題が全部正解していたり…(中略)、本人なりに、先生からのアドバイスを刺激に、設問や言葉に意識をしながら問題を解いていったそうです。すごく喜んでいました。
国語の成績が安定するかどうか、まだ、わかりませんが
「全然ダメじゃないんだ。」と前向きになっていました。」


この方とのメールで一番嬉しかった言葉は、何と言っても最後の1行だ。
一人の子どもが、「全然ダメじゃないんだ」と前向きになった。それだけでいい。私がほんの少し役に立った。嬉しい。

現代文のテクニックを身に付けるメリットは、点数を上げるためだけではないのだ。
テクニックを身に付けることによって、苦手だと、できないと思っていた現代文に希望を持つことができ、他の科目に時間的・精神的に良い影響が出るのだ。
ド○ゴン桜でもそう。115時間×300日の勉強を支えるもの。マンガの話だが、もしそれがあるとしたら、それは前向きさ、ひたむきさに他ならない。
その精神を支えるものは、「やればできるようになる。自分にもできる。絶対に合格したい」と思い続けることだ。
そうでなければ、受験は絶対に上手くいかない。ほんの少しでも「どうせ、きっと、第一志望には受からないんだろうな」なんて思っていると、本当に受からない。
そんな受験は、本人の将来にとっても周囲にとっても不幸な受験となる。
逆に、最後まで自分を信じ、精一杯やったのであれば、たとえ結果が×であっても、得るものは必ずある。
ただ、それは全力で頑張ったことのある人にしか味わえない感覚なのだろうなあ。
その感覚を、私はできればすべての受験生に味わってほしいと願っている。
不完全燃焼や後悔で終わらないために。自分に嘘をつかないでいるために。
テクニックを身に付けよう。

おわり






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2012年12月26日水曜日

勉強法の常識を疑うその6~現代文・国語の常識と真実2



ゴン桜より

このブログではド○ゴン桜の話題も多い。
これは、漫画・ドゴン桜が私的に名著であると思うがゆえんであります。
塾でドゴン桜の話をすると、知っている子はドラマで見た(DVDで見たのか?)という子だけであり、マンガで読んだという子はいない。
私は逆にドラマは見ていないが、マンガとは異なる印象を与えるものではないかと想像している。
ドラマって、原作と違うことよくあるしね。

マンガ版ドゴン桜の優れているところは、まず高校生の心理をつかんでいる点だと思う。
次いで、特別講師が実在の人物をモデルにしている点だ。
ところが、ほとんどの子の感想は、「あんなの不可能だ」である。
「ギャグでしょ」と言う子もいる。
誰も登場人物の心理には注目していない。触れてもいない。
ドラマが原作と異なっているのか、私の感想とはえらい違いなので、今度マンガを塾に持っていて読ませようかとも思う。

さて、マンガ版においてもやはりテクニック面や東大合格という結果が強調されている感もあるが、ベテラン講師にとってはそれらはとくに目新しいものではないだろう。参考になることもあるが。
で、先の2点に加え、個人的なドゴン桜の特筆すべき点は、
1、きれいごとが排除されている点
2、長時間にわたる勉強時間を確保できている点
2点だ。
きれいごとが排除されれば「真実」だけが残るから、このブログの主旨と合致している。
勉強時間の確保も、本当にうらやましい。
ゴン桜の登場人物は115時間、年間300日を特別講師にべったりへばりつかれながら勉強している。
想像してほしい。並みのモチベーションであれば頭がおかしくなるだろう。
それだけやれれば1年で東大合格も可能かもしれないと思えてしまう。

そんなマンガだから、特別講師のセリフには信憑性がある。
実在の人物がモデルなのだ。だから引用したくなる。
そんな登場人物に、芥山という先生がいる。国語の特別講師だ。
その先生と私の意見が近いため、リスクを犯しても引用させていただく。

32人と同僚の国語教師の前で、芥山先生は断言する。
「出題される問題文は非常に難しい。そして時間の割に文章が長い。」
「大人が読んでも苦労する文章です。高校生に読んでパッとわかれと言うのが無理です。」
「ところが真面目な人はそうは思わない。繰り返し読んで内容を深く理解してから問題を解こうとする。」
「テスト時間内に内容を理解しようとあがいても解答には近づきません。」

そう前置きした上で、次のように告げる。
「問題を作る人の召し使いになれ。」
「自分では何も考えてはいけません。」

これを聞いた同僚の国語教師は思う。
「ひどい。いくらなんでもひどすぎます、芥山先生…」

芥山先生はテクニックと客観性を重視する人であります。
しかし人間の心理・真理をつくような言葉を次々と投げかける人でもあります。
決して、受験が終わればそれまでよ、という類のテクニックを教える人ではない。

このように、ドゴン桜をギャグだと思わずに、真剣に、書いてあることのすべてを吸収しようと思って読めば、バイブルになるようなマンガだと思う。
でもひょっとしたら、何かを犠牲にしてでも本気で何かを手に入れようとしている人でないと、心に響かないのかもしれない。

つづく






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2012年12月23日日曜日

勉強法の常識を疑うその5~現代文・国語の常識と真実1


現代文の攻略法については、ネットを見ても本を読んでも「読解力」に焦点が絞られているようだ。
ところが私は、前々から提言しているのだが、どうしてもそうは思えない。

私は現役の受験生時代から、テキストの本文解説や本文要約などは読み飛ばしていた。
ひたすら、選択肢の消去や抜き出し箇所の発見の方法を探求していた。
塾を開いてからもその方針は変わっていない。
それが生徒のためになっているという自信も、データも私は持っている。
問題文なんか理解しなくても、偏差値30台の生徒が、上智の現代文であっという間に7割を取れるようになった。
すべてはテクニックである。
そして、現代文のテクニックは非常に少なく、10日もあれば身に付けることが可能だ。

ところが、テクニックのみで解くというと、「読解力が身につかないじゃないか」と批判する人が必ずおられる。
たしかにその通りかもしれないが、読解力はテクニックを身につけたあとで、余裕があれば磨けばいいのでは?
普通の生徒なら、テクニックを身に付けたら他の科目、つまり英語や数学や理社をやりたがるけどね。
そう考えると、「読解力」を身に付けさせたいなんて言うこと自体、国語を教える側のエゴではないか。もしそうなら反省してもらいたい。
生徒が読解力を望んでいるならいい。
しかし、生徒が点数アップであり偏差値アップであり、その先にある合格を望んでいるならば、読解力は押し付けの勉強になってしまう。
現代文より配点の高い科目を、点数的に伸びしろがある科目を、より勉強したいと思うのは人情だ。
生徒のためを思うなら、「読解力を磨くくらいなら先に英数理社をやれ」というべきではないのだろうか。人間として。

お金を払って通ってくれている生徒がいる以上、ここで私の持つテクニックをすべて公開することはできない。
しかし、読解力を身に付けようとして現代文で苦しむのはもうやめてほしい。
そのためのヒントはちりばめたいと思う。

さしあたって、弊塾の元生徒であり現アシスタント講師、慶應大学経済学部2011年度合格イケメンの言葉を引用させていただく。

「問題文なんて数式にしか見えなくなった。そうなったとき、偏差値が70を超えて安定した。」

だって。


つづく






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2012年11月9日金曜日

勉強法の常識を疑うその4~英語の常識と真実3


(常識)英語には速読法がある
(真実)速読法があるとしたら、特殊能力である

昔テレビで、小学生くらいの子が、1冊の本をパラパラマンガのような勢いでページをめくり、1分もかからず内容を理解していた、というシーンを見た。
だから、もしかしたら速読法は存在するのかも知れず、その存在を完全否定することはできない。まあ、テレビの話だが。
ネットでも「速読」を売っているページもあることだし、なおさら存在を否定することはできない。

さて、皆さんは魔法や超能力を信じておいでか。
魔法や超能力を信じているなら当然、霊も信じていらっしゃるか。
私の独断と偏見では、
霊>超能力>魔法
の順でありえそうな気がしているが、どれも“存在する”とも“存在しない”とも証明されていないようなので、やはり速読法と同様、“存在するかどうかわからない”が正しいのだろう。

さて、ヨタもこれくらいにして、今回のテーマ「速読法」が存在するとしたら、私としては、それは超能力に近い特殊能力であると信じる。

しかし。
仮に、英語の速読法をマスターした高校生がいるとしよう。
果たしてその生徒は、英語で書かれている大学の物理のテキスト、たとえば量子や素粒子などの論文も速読できるのであろうか。
果たしてその生徒は、英検1級の長文も速読できるのであろうか。
無理だろう・・・
このことから、もし速読法があるとしても、
①ある程度理解できる内容であること
②自分の持つ文法や語彙の力より易しい英文であること。
でなければ速読法も役に立たないことになる。
逆に言えば、「英語力」を身につけており、内容を読み取る国語的な読解力があり、雑学にも詳しい受験生であれば速読も有効であろう。
さらに、それらに加えて、そもそも
③ゆっくり読めば理解できる英語の読解力があること
が前提なのではないか?
ゆっくり読んでもわからないものが速く読んでわかるわけないしな。

ん・・・?
つーか、つまり速読法って、まず普通の英語の勉強が必要なのでは・・・?

経験者ならお分かりいただけると思うが、偏差値が上がれば自然に読むのは早くなる。
単語熟語と技術さえ習得してしまえば、英文を読めば読むほど速く、正確に読めるようになる。
受験科目と別に「速読法」を学ぶ必要はないし、やることを1つ増やすなんてとんでもない。

無理なペースで速読をしても、読み違えれば得点にはならない。
いろいろな過去問を解けばわかるが、英語長文には経験値が高いと有利だ。
いろんな知識があれば、それだけ英文は早く読めて、理解もしやすいものだ。
それに現代文が得意であれば、同じノリで英文を読むことも可能だ。

結論。速読をやる前に、まずはオーソドックスな英語学習をすること。
知識や読解のために現代文も世界史も政経も物理も化学も世の中のことも勉強すること。
それに勝る速読法はないのだ。

ちなみに大学受験英語の試験では、多くの場合、“大意の理解”と“細部の読み取り”が求められる。
長文が仮に読めたとしても、選択肢の短文の解釈を誤っていては得点力が落ちる。
文法や熟語の独立問題は、多くが短文で出題されるので、前後から意味を推測するわけにもいかないから細部の読み取りができるようにならなければならない。
国公立大学の和訳や要約では、下線部を読み取るときは細部の読み取りだが、文章全体と矛盾しないような日本語を作成しなければならない点で大意の理解も必要である。

速読法が気になるのもわかる。
模試を受けても偏差値50程度では、まず時間が足らないから余計にそう感じるのであろう。
しかし、模試は難しいから、偏差値50程度なら時間が足らないのが普通だし、最後まで理解して解けたらそれはもう偏差値60なのだ。
だから偏差値55以下が目標であれば、模試での時間不足を苦にしてもしかたがないのだ。
パラパラまんがをめくるようなスピードで英語が読めたらいいとは思う。
しかしそんな人間がそうそういるか? いないだろう? 少なくとも私の知り合いにはいない。
いない以上、いたとしても特殊能力の持ち主であり、うらやましがってもいいが真似をしても徒労に終わるにちがいない。
かく言う私は小学生の頃、真剣にスプーンを曲げようとしたことがあるのだ・・・



次回以降は、国語の常識を切る予定。






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2012年11月1日木曜日

勉強法の常識を疑うその3~英語の常識と真実2


(常識)まず、文法
(真実)まず、単語熟語と長文

文法って何だろう・・・
今回は面倒くさいので定義はやめておきます。文法のテキストに載っているようなことを文法と呼びましょう。

前回の記事でもお伝えしたとおり、目標とする英語の偏差値によって勉強法は異なる。
偏差値55以下なら単語熟語だけでオッケーだし、それ以上の偏差値なら長文の訓練をまずやるべきだと申し上げた。
しかし、高校の授業がそうであるからなのか、英語の基礎は文法だと思っている受験生は異常に多い。
いったい、センター試験や英検2級で、文法問題がどれくらい出題されるかご存知だろうか。
センター試験での純粋な文法問題はわずか数問。しかも12点である。
英検2級も同様だ。
そして大半が語句と長文問題なのである。
つまり、細かな文法問題など解ける必要はなく、読んで意味がわかる程度の文法力があればよい。
文法に費やす時間はすべて語句と長文にまわすべきで、語句と長文で十分な点が取れるようになってから、トドメに文法をやるのが最も効率がいい。
受験は時間との戦いなので、効率は絶対に重視しなければならない。
特に国立受験生は科目数も多いのでなおさらである。

しかし、本当に文法が必要ないのか? 最後でいいのか? という疑問があるかもしれない。
もし英語の試験に文法力が絶対的に必要ならば、中2で英検3級に、中3で英検準2級に合格する生徒が多数存在する事実をどう受け止めなければならなくなるか。
弊塾には、小5で英検2級に合格した子も在籍している。
彼らは果たして、先々の学年の文法までマスターしているだろうか。
経験者ならお分かりいただけるはずだが、英検対策の極意は1にも2にも語句の暗記である。
英文の意味は単語をつなげてなんとなくわかればよい。
語句問題で高得点を取り、長文問題は単語で読みきるのだ。
このことは英検2級でもセンター試験でも、偏差値50程度の大学入試問題でも同様である。

さて、ここで前回に引き続き、目標偏差値ごとの勉強法を考えてみよう。

上位大学の英語の問題はほぼ長文だけだから、一人で単語熟語を覚えられる受験生は、読解技術に専念すれば英語は伸びる。
読解技術は故伊藤和夫が確立し予備校に広まった確固とした方法があるので、どの問題集を解いても書いてあることに大差は無くなっている。
(個性的な勉強法も多く紹介されてはいるが、まずはオーソドックスな方法を薦める。
オーソドックスは王道でもあるからだ。)

ところが、単語熟語が“一人では”覚えられない受験生もいる。いる、どころではない。偏差値50以下の生徒のほとんどが単語熟語が覚えられなくて苦しんでいる。
このレベルの受験生は文法もあやふやで、文型や品詞もきちんとは理解していない。
この状態の受験生に「まず文法」をやらせても、文法だけで1年が終わってしまう。
その点でも、「まず、文法」は恐ろしく遠回りな、このクラスの受験生はとくに、絶対にやってはいけない勉強方法なのである。
大切なのは英文の意味が分かること。訳ができることだ。
訳をするのに必要な限りで文法を教えるのはよい。
訳ができれば、文法は嘘を教えてもかまわない。
このウソの文法を、“なんちゃって文法”という。
ところが、なんちゃって文法を教えられる講師は少ないので、多くの受験生が遠回りをすることになる。

さて、偏差値50以下の受験生は単語熟語を一人で覚えられないと申し上げたが、ではどうすればいいのか。
簡単である。誰かサポートがいればいいのである。
覚えているときに講師が付いていればよい。
ところが、受験生もその保護者も、授業内で暗記をして、暗記にお金をかけることを嫌う傾向がある。
講師と一緒に暗記をすることが時間の使い方として最も有効だということとは逆接的だが、暗記にお金をかけてほしくない、暗記くらい一人でやれ、という保護者が多い。
しかし、むしろ問題を解いて丸付けをすることこそ、彼らは好きで得意である。
中学時代の勉強法がそれなのであろう。
よって、ある程度単語熟語を覚え、読解技術を学び、過去問で60%程度得点できるようになったら、演習を自習でするべきなのである。
こうなった段階で、塾での授業は、決して一人ではできない、仕上げの文法となる。

ここまで読み返してシマッタと思ったので注意しておくが、私は文法をやらなくていいと言っているわけではない。
文法は“後回し”“最後”“仕上げ”だと言っているだけである。
偏差値50前後やそれ以下の大学の問題を見ると、文法の独立問題も多い。
(といっても半分くらいは熟語が混じっているのだが。)
さらに文法学習は、文法の独立問題だけでなく、長文対策にも有効だ。
単語熟語がわかっても、長文で得点できないことがあるからだ。
たとえば空所補充。空所補充では文法的な思考が問われることもある。
選択肢の短文訳をする力も、見落とされがちだがかなり重要だ。
長文の全体像が読み取れても、選択肢の意味が正確に取れなければ失点する。
下線部訳だけでなく、会話文もこの要素だ。

最近多い、「下線部の語句と同じ意味の語句を選べ」という問題もそうだ。
純粋な語彙力を問う場合(1とする)もあるが、誰も知らない語句を文脈から推測させる場合(2とする)や、多義語の文中での意味を文脈から推測させる場合(3とする)もある。
MARCH上位以上は2が多いが、偏差値55までの大学は1と3が多い。


以上、文法は“後回し”“最後”“仕上げ”にやるのが最も効率がよいことがお分かりいただけただろうか。
しかし、市販の英語テキストは、何をやっても説明に「補語が~」「副詞節だから~」と書いてあるから困る。
また、塾や予備校講師はやたら文法用語を使うかもしれない。
そんなときは、まず訳などを読んで理解できればよいと思ってくれ。
「文法は、長文が少し読めるようになったらやろう」と思っていてくれ。


次回は「速読」を切る予定。




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