2013年3月28日木曜日

正統派合格体験記 AO・自己推薦編


未来は思い描いたとおりに・・・?


このブログに以前ちょいと登場したこともある女子、Aが、“公言どおり”自己推薦入試で昭和女子大の初等教育に合格した。
そう、このブログの記事“なぜ勉強するのか”で
「アタシ、推薦で昭和女子大に行くの」
と未来を断定していた彼女だ。
自己推薦入試の倍率は5倍。彼女の通う高校の普通科から初等教育へは初の合格者であるらしく、職員室は彼女の“快挙”に浮かれたらしい。
Aが通う高校の偏差値は50。Aの評定平均は3.4。決して高いわけではない。昭和女子大受験はまさにチャレンジだった。

Aの入塾は小6だったが、話は6年後にワープする。
Aのお母様、A、MJ、副室Kの四者面談にて。

Aのお母様とA「AOで受かったらいいんですけど…」
MJ「AOは落ちます。次の自己推薦が勝負です。自己推薦で落ちたら一般受験ですから、とにかく一般受験を目指して勉強します」
一同「・・・・・・」(ドン引き)

といういつものドン引きパターンをやっちまった。
昭和女子大は一般の高校生に対し、AO、自己推薦、指定校推薦(不合格者が出る)、そして一般という入試制度を用意している。
AOも自己推薦も倍率が高く、とくに初等教育は人気が高い。一般受験のほうが入りやすいんじゃないの? と思えるくらいだ。
それでもAOと自己推薦と一般を全部受ければ3回のチャンスがある。
Aは高1のころからAOと自己推薦に照準を合わせており、高2から小論文の訓練もしてきた。
しかしながらAの高校時の活動に目立った成果がなく、その点でAOは不利だと判断し、そしてそれを正直にお伝えしたらドン引きされた。

が、Aにあきらめた様子はなかった。
AOが不利なら、エントリーシートと小論文で逆転してやろうと意気込んでいた。
しかしエントリーシートを書いてみると、まるで勘違い野郎。お嬢様の優等生ぶりっこ。
大学が求めてくるであろう“教育に携わる者に求められる資質”がまるで読み取れなかった。
このままでは自己推薦でも合格はないし、仮に一般入試で合格したところで教採(教員採用試験)には合格しないと思われた。
ぶっちゃけて言えば大学は教採の合格率を誇りたいわけで、「コイツは教採には受からんな」と思うやつは落とすのだ。
教採に受かる“資質”とは、考え方のことである。こればっかりは答えを覚えこませても意味がなく、よしんばそれができたとしても面接で化けの皮がはがれる。
そこで私は夏休みを利用して、Aに“資質”をつけさせるためにノートを作らせることにした。
そのノートに、私が出す課題について調べたり、自分の考えを書いていき、毎日私に見せることを求めた。たとえば「教員採用試験の試験制度を調べろ」とか「OECDが教育についてどう述べているか」とか「世界の最貧国に教育を普及させるにはどのような方法があるか」「そもそも最貧国に教育は必要か」とか。
Aが今まで考えてもこなかったような問題。哲学的でもあるし、現実的でもあるこれらの問題を、Aなりに必死で調べ、考えてきた。
しかし私は納得がいかないと
「ちがう」
の一言であっさり退けていた。
加えて、小論文でもダメ出しが続いていた。
高2からやっていただけあって形式はしっかり書けているが、どちらかというと思考・内容勝負の学科である。その内容がお粗末だった。

そんなことが何度も何度も繰り返されたある日、Aはついに泣き出した。「うわーーーーーん」と、まるで小さな子どものように。
「どおしていけないんですかあーーーー。アタシには無理なんですかーーーー。うわーーーーん」
このときどう接したかどんな言葉をかけたか、私は正直覚えていない。
しかしAが絶望を感じたであろうこのときを境に、Aは変わったと思う。
後に聞いたのだが、「MJを倒す。絶対にうん、いいんじゃない、って言わせてやる!!」と思ったようだ。
Aにしてみれば、まずノート作りの意義がわからなかったそうだ。「正直、こんなことしてなんになるの? って思ってた」とは後日譚である。
それでも夏休みが終わる頃にはノートがいっぱいになった。それをAはお父様に見せたことがあったそうだ。そのときお父様は
「ふーん、Aはこんなふうに考えていたんだ。先生になりたいっていうのは本気だったんだね。Aとこんなに真面目な話をするのは初めてだね。このノート、すごくいいね」
とおっしゃったそうだ。そのとき初めてノート作りの意味がわかり、その他の事も1本の糸で繋がった、とAは言っていた。
なんだ、ぜんぜん信用されてなかったのかよ。

夏が過ぎ、エントリーシートの提出日が近づいた。
そんなある日、なんとなく予期はしていたが恐ろしいことが起きた。
Aが午後10時を過ぎたにもかかわらず「書き終わるまで帰らない」と言い出したのである。
「ご家族がOKで、かつ迎えに来てくれるのならいいよ」
という条件を出した。女子だし、ご家族がOKするとは思わなかった。
ところが、終わったら兄キが迎えに来てくれるからOKだと。
オワタ…
Aの兄にファミレスに軟禁されたことが思い出され、私は覚悟を決めた。
こいつらは、言い出したら納得するまで譲らない。

おかげで、エントリーシートは納得のできるものとなった。
これで落とされたらこの大学は見る目がない。第1志望にするな、とまで言った。
で、順当にエントリーシートは通った。
AOの面接は高校が十分な対策をしてくれているとのことだったので、方針が矛盾するとAが混乱する恐れがあったため高校の方針に任せることにした。
ところがというべきかやはりというべきか、考えが甘かった。
面接で大失敗をしてくれたらしいのである。
それも、やってはならないNGをやっちまったらしい。
面接の様子を聞いただけで、AOに合格する可能性がゼロだと知れた。
高校を批判するつもりはないが、こと面接対策に限っては、専門の塾のほうが明らかに大学の望むポイントを押さえていると思う。
中学校や高校の面接対策を聞くと、やれ礼儀とか、志望理由がすらすら言えるかとか、言葉遣いとかに重点を置きすぎているのである。
面接はそうではない。コミュニケーションである。大学の先生なら、その子がどんな子であるのか、少し話せばわかるのである。表面の取り繕いはまったく意味をなさないどころか、逆効果ですらある。あ、批判してるわ。
私は高校の面接対策に大いに不満があることをはっきり告げた。
そして副室Kも面接対策に乗り出してくれた。
「Aさあ、好きな人に『好きです』って言うときに、いちいち理由をいっぱい言うの? 理由を言えば伝わるの? 違うでしょう。『好きで好きで、ほんとに好きなんです』って言うでしょう? 面接も同じなのよ」
その通りである。

AOに絶望した時点でAに開き直りが見られ、一般受験を強く意識し出した。まあ、今までやってなかったのかよ、って感じだが。
いずれにせよこれで“勉強していますオーラ”が出て、面接でもプラスに働く。
「勉強しないで受かろうってのが甘かったのよ。いいの、アタシは一般受験で受かるから。でも悔しいから自己推薦で言いたいことめちゃくちゃ言ってきてやる」
表情も生き生きとしていて、本来のAになったようだった。


果たして、四者面談の予言どおりになってしまった。
私はAOで100%落ちると思っていたわけではない。「落ちます」と言ったのは、楽観的過ぎるAを戒める意味もあった。
一般受験を意識させたのも、「お願いだから大学に入れてください。でないとワタシ、こまっちゃう」なんていう変なオーラを出させないためだ。勉強していないとこういった負のオーラを出し、大学の先生に見抜かれてしまうものなのだ。
自己推薦入試に合格できたのには、たしかに運もあった。
まず、Aが高1のときに大学説明会で話をした先生が面接担当であったようだ。
そして面接では、『どうしてこの大学を選んだのかを、事前に提出した志望理由に書いていない言葉で、自分の言葉で教えて』と言われ、『すんごく好きなんですっっっ』を連呼したそうだ。
さらになんと、試験前日に私とAが論じ合った「しつけと虐待の境界線はどこか」が、面接でまんま問われたそうだ。試験前日は土曜日で、私は通常は出勤していない。しかし正直Aが心配で様子を見に行き、たまたま私が出した最後の小論文課題がそれで、私が塾に着いたときにちょうどAがそれをやっており、それについて話し合ったのだった。

試験当日の話をから聞いた。
集団面接が始まり、志望動機を自分の言葉で、感情を込めて伝えた後、いよいよ本題に入り、教授が、
「みなさんにうかがいます。しつけと虐待の違いはどのような点だと思いますか?」
と全員に向かって問いを投げかけた。
Aは誰も挙手しないことをちらりと確認したあと、挙手した。
「はい。愛情があるかどうかだと思います。」
運命の瞬間だった。
は、このとき、教授のケツが浮き、身を乗り出したのを見たという。
教授「ほう。続きを聞かせて。」
A「はい。(以下略)」


それらを聞いたとき、Aには言わなかったが、私は合格を確信した。副室Kが証人だ。
そして見事、公言どおり、そして予想通り、Aは昭和女子大の初等教育に合格した。
集団面接が終わったときには、今までAの目の前に立ちはだかっていた壁が、すっかり崩れ落ちていたのだ。

こう書いてしまうと運だけで受かったみたいだが、それは絶対に違う。
副室Kも以前に書いていたが、運は本当にがんばった人しか引き寄せられない。
いくら面接がよくても小論文がお粗末ならオワリだったし、たまたま考えていた論点が出たと言っても、普段から考えていない限り、たくさんたくさん考えていない限り、そうそう的中するものでもない。
まして、ノート作りをしていなければ、たとえ問題が的中しても考察力が不足し、合格していなかったであろう。

それにしても副室Kはよく言ったものである。私は反論していたのだが、こうも証拠を突きつけられてはね。
副室Kいわく

「未来は、思い描いたとおりになる」

らしいよ。


2015/10/21一部追記しました。集団面接の内容について、もう時効かな?と思ったので詳細を公開しました。

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2013年3月1日金曜日

大学受験合格体験記 ゲームと博打


ゲームと博打(バクチ)

一昨日、高3生の一人から第1志望合格の報告があった。繰り上げ合格だった。
彼は偏差値50の公立高校に通う。成績は下の下。サボることしか考えていないゲーマー。
入塾時、「将来は公務員になって楽をしたい」と言って憚らなかった、本物のバカである。
「なら、今すぐ(高卒程度の)公務員試験受ければ?」と言ってやったらもにょもにょ言い訳していたが。

合格した大学は、彼の通う高校の偏差値より6も上だ。
“勉強法の真実ブログ(偏差値について)”でも述べたように、高校の偏差値と大学の偏差値では510も大学のほうが低く出る。高校受験生の上位60%しか大学受験をしないためだ。
つまり、彼の適正は偏差値4045の大学であって、偏差値56の大学へ入学することは大躍進といえる。しかも彼の場合、特にサボりすぎて高校内容の知識ゼロのスタートであったから尚更である。

何が彼を合格させたのか。
とても受験生とは思えない夏休みを過ごし、塾へ来いと言って来ない。私の隣で自習しろと言っても別室に逃げ出す。様子を見に行くと必ずケータイをいじっている。
授業でも終了時刻が近くなると、早く帰りたくて椅子からケツが浮いていた。
欠点を挙げれば、それこそキリがなかった。

それでもさすがに英単語だけはぼちぼち覚え始めた秋も深まる頃、彼は突然「法政大学」の名前を挙げた。
今の今まで「東洋、専修」と言っていたやつが、さては狂ったかと思った。
「まあ、一般論で言えば、本気でやれば受からない大学ではない。ただ、ニッコマとは勉強の方法が異なるから、これまでの勉強法では通用しない。これからは俺の言うことを完全に聞くしかない。それでもやるのか?」

それから法政対策が始まった。
が、詳しく書く必要のないくらい、早々と根を上げた。
本人は挫折したつもりはないみたいなのだが、法政対策がいやでいやで仕方がないといったオーラが伝わってきた。
授業中に私が詰問しまくるという凄惨な光景の中、周囲が負のオーラを感じて首をすくめている頃、そう、こんなときはいつも副室Kがいい場面を持っていく。
「オメーな、MJの言うとおりになんかひとっつもできねーじゃねーかよ! MJがやれって言ったことをやらねーでMARCHなんか受かるわけねーだろ。誰もお前に法政受けてくれなんて頼んじゃいねーんだよ! 今すぐやめちまえ!!」
正論だが、副室Kはなんでそんなに簡単にキレられるのだろうか。うらやましい。
しかしそれから数日、彼なりに考えたのだろうか。
「MJ先生の言うとおりにするので、どうすれば受かるか、教えてください。」
それは何度も言っただろう…と言いかけてやめた。あまりに真剣だったから。
「今までの自分がいやなんです。クズな自分を変えたいんです。お願いします!」
既にセンター対策の時期となっていた。

彼はセンターで東洋を引っ掛けるつもりでいた。
もしセンター対策が一般入試の邪魔になるようならセンター対策をしないつもりであったが、ひとつの発見があった。
すでに語彙が8割がた入っており、集中していれば英語は思いがけない高得点を取るのである。
そして急速に現代文の力をつけ、75%~95%で安定して他の科目をカバーできるまでになった。
一方、1日集中するとその後2日は使い物にならない、ということも露呈した。お前は競走馬か。
つまり、彼は上位大学受験生の3分の1しか集中して勉強できないという体質の持ち主だったわけだ。
加えて、結果に一喜一憂しまくった。
こいつを、どうしろと?

最終的な受験校決定はセンター後となった。
なんと奴は第1志望を法政から國學院にするという。
法政に思い入れなんかなかったんじゃねーか。
もう私はこの時期、「ダメなら浪人しろ。」と、ことあるごとに、公然と口にした。
私は、特に男子なら、受験はバクチであるべきだと思っている。
行くか、引くか、だ。
もし行くと決めたら退路を断ち、結果は自分で受け止める。それが受験のあるべき美しい姿だと信じている。
バクチが打ちたくなければ、高1の春から真面目に勉強し、指定校推薦を取ればよかったのだ。
もし受験をゲームにしたいなら、いくつライフを減らしても生き残れるように偏差値をかなり下げた滑り止めを受ければいいだけだ。
しかし、人生を賭けたバクチを打つつもりになれば、BETする対象に本気になるだろう。
真剣に分析し、観察し、勝つ確率を極限まで高めようと努力するだろう。
少なくとも私はそうするし、マージャンや競馬が強い人はみなそうしているはずだ。
負けても笑っていられるのはバクチではない。それはゲームである。
受験は決してゲームであってはならない。
「受かりますかね? 2つ受ければ受かりますか? 3つならどうですか?」
と不安がる彼に、
「知らん。確率の問題だ。受験は絶対に100%にはならん。」
と言い続けた。

結局、彼は安全校を受けなかった。
すべて落ち、第1志望だけ受かったのは、浪人を覚悟しつつ退路を意識しなかったからに他ならないだろう。


なにやら走馬灯のような記事となってしまった。
思えば、12月からは日曜日も毎週塾を開け、高3は塾内模試の日とした。
恩着せがましいようだが、毎週毎週、タダで英国センター過去問の解説をした。初老のMJにはとてもきつかったから、普段は絶対に言わない(ように努めている)愚痴を、この場で少しだけこぼさせてもらう。
今年はきつかった。
高3の中に、偏差値50の高校の、なんとクラスで最下位のやつが2人もいた。
でも、正直、私は彼らがかわいかった。
努力するということのすばらしさ、尊さ、そして大袈裟だが人生における努力の意味と役割を知って、ずっと成長し続ける人間になってほしかった。
受験を通じて、子どもから大人になってほしかったのだ。

今年、高3は4人いた。
まだ1人だけ発表を残しているが、どの子にも並々ならぬ思い入れがあった。
“あまり思い入れては成長が促されない”という持論があるため表には出さないようにしていたが、こらえきれなかった場面もあった気がする。
どの子も記憶に残したいので、また書くことにします。








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2013年2月14日木曜日

中学生へ2


中学生の学力に限界は無い。

前回の記事で、「中学生でも、大学受験を見据えて勉強すべきだ」と申し上げた。
今回はさらに発展させ、精神面について述べさせていただきたい。

中学で学習する内容は、社会に出れば一般常識に過ぎない。
いきなり「何言ってんだコイツ?」と思われそうなので根拠を述べる。
就職試験などでは「一般常識」が出題されるが、その多くが、実は中学の内容で構成されている。
「標準時と日本の時差は?」とか「DNAの和語は?」なんて問題が「一般常識」で出題されるということは、中学の内容は「常識」だということだろう?
それくらい、中学校の学習内容は基礎的なのである。だって義務教育だし。

と、何も中学内容の勉強を馬鹿にしようというわけではない。
前回お伝えしたように、中学の勉強には大学受験に通じる大切な分野がある。
言いたいのは、中学内容の勉強ならば、誰でも(100%とは言わないが)、努力すればすべて理解でき、覚えられ、身につけることができる、ということだ。
大学入試と比べればよくわかる。
大学入試を経験した方なら誰でもお分かりであろう。高校入試と大学入試では、その量と習得にかかる時間が段違いであるということを。

話が少し逸れたが、特別な事情がない限り、中学の段階でつまずくということは、基本的にはありえない。
ではなぜつまずく生徒が多いのかと言うと、よく「勉強法が間違っている」という人がいるが、実は単なる努力不足、やる気不足である場合が多い。
こう言うとさらに非難が轟々と押し寄せてきそうだが、それでも奇麗ごとは言わない。
だって、もしつまずいたと感じたならば、克服するまで努力すればよかったではないか。
もし「つまずいた」とすら感じなかったのならば、それだけ勉強に対する意識が不足、つまりやる気がなかっただけではないか。
「だって、誰にもきけなかったんだもん」「先生に聞いたけどわからなかった」という声も聞こえてきそうだ。
「誰にも聞けなかった」って、学校に行ってないのか? ならば仕方がない。それは「特別な事情」だ。
「先生に聞いたけどわからなかった」って、何でわかるまでしつこく聞かなかったの? わかったフリをしたの? その先生でわからなければ、なぜ別の先生に聞かなかったの? なぜわかるまで参考書を読まなかったの? なぜ友達に聞かなかったの? なぜ、ネットで調べなかったの? なぜ、わからないまま放置したの? 塾へ行っているのならなおさらだよ。
昔、サイボーグのような講師(今は東大なんとか研究所にいる研究員)も断言していた。
「チュウガクノナイヨウデ ドリョクシテモデキナイコトナンテ ゼッタイニ アリマセンヨ」と。

勉強に限れば、本当に、中学生には限界が無い。
すべては努力とやる気しだいである、と断言できる。
サイボーグも、中1のときオール3(2745)で、中3で3945にして柏陽に入った。
私も中1のとき2945で、中3で4145にして湘南に入った。
弊塾でアシスタントをしているKも、中1で3045で、中3で4245にしてサイエンスフロンティアに入った。
なぜ入れたのか?
それは、単に目指したからだ。
目指したから。それだけなのだ。
目指さなければ、当然、絶対に結果は手に入らない。
「アタシには無理だから~」「オレは○○高校でいいや」
それも結構である。無理に目指せとは言わない。
目標は個々にあっていい。
ただ、もし心の中に憧れの高校があり、そこに入れたらいいなと思う気持ちが少しでもあるのなら、その目標に対して嘘偽り無く努力をし尽くしさえすれば、必ずと言っていいくらい確実に入れるのだ、と言いたい。
目指す前に勝手に自分で限界を決め、なんだかんだと言って結局何をも目指さないのは、本当にもったいないことなのだ。
目指す。それだけで可能性が出てくるのに。

前回の記事にも書いたが、小学校からの積み上げが少なくても、中学に入ってからの勉強で充分に小学校内容はカバーできる。
小学校の復習を含めて中学内容を身につけるのはたしかに大変だが、脳の幼い小学生のときに理解できなかったことが中学生では理解できるということもよくある。
だから小学校で勉強が苦手だった場合も悲観することはない。ちょっと(ちょっとではないかもだが)たいへんになるだけだ。
だいいち、小学校の内容をすべて忘れずに覚えている中学生なんていないのだし。

ただ、現段階の成績が低ければ低いほど、また受験までの時間が短ければ短いほど、上位校を目指すのがたいへんになるのは事実だ。
現実的に「無理だ」と言わなければならない時間的リミットはある。
ただしかし私は、時間的に限界ではない限り、何かを目指して嘘偽りの無い努力をすれば、中学の段階でできないことなど絶対に無い、とだけは言いたいのだ。
中学内容など、まとめてしまえばたかが問題集5冊だ。1科目1冊だ。
それすらできないならば、おそらく大学は選べないし、就職試験でも苦労する。
たしかに「何かを得ようとすれば必ず何かを失う」のは当然のことで、勉強時間は必ず自由な時間を奪うだろう。ストレスもたまるだろう。
しかし、何かに向かって嘘偽りの無い努力をることは必ず自分の血となり肉となり、結果として成長した自分に出会える、ということを保証する。

私は、「勉強して後悔した」という人間に未だかつて出会ったことがない。
以前にこのブログに登場したM上は就職の最終面接でのことを次のように話した。
「最終面接はグループ面接だったんだけど、俺以外の3人は早・慶・上智なんですよ。で、『今までに一番がんばったことは?』って聞かれて、『正直に申しますと、やはり大学受験ですね。あんなにがんばったことは、それ以前にもそれ以降にもありません。』と3人が3人とも答えたんですよ。それ聞いて、俺は法政だし、いくらサッカーをやってきたって言っても、スゲーなコイツら、って思っちゃったんですよ。俺、勉強でそこまで努力したことなかったんで。」
勉強は決して強制されるものではないし、強制されても決して身になるものでもない。
あくまでも自分の意思で勉強しない限り決してプラスにはならないし、結果もまず、ついてこない。
逆に自分の意思でやれば、考え方や人生までも変えてしまうこともある。
成長するということは変化するということであるが、停滞することは退化を意味する。
成長しているときは生き生きとしているが、停滞しているとどんよりしてしまう。
このことから、人間は常に成長しなければならない生き物であると言えるが、成長するためには努力が必要である。
努力するためには目標が必要で、その目標は自分で定めたものでなければ努力もできない。
努力すれば成長した自分に出会え、毎日が生き生きする。
スポーツには才能が必要で、努力すれば誰でもM上のようになれるわけではない。
しかし勉強は、多くのデータが示すように、多くの人が口を揃えて言うように、才能は関係ない。
目標にふさわしい努力をするか、しないかだけなのである。
目標にふさわしい勉強をして、後悔することなど何一つないと言っていいだろう。
だからとりあえず、目標を高く持て。中学生の勉強に不可能はない。
自分が「どれくらい努力できる人間なのか」を、自分自身に真剣に問うてみてほしいと切に願うのだが、いかがなものだろうか。

追記
だからといって、詰め込みはいけない。思考力が大切。
あれも、これも、もいけない。1科目ずつ克服する。
本人がやる気なら結構だが、押し付けてもいけない。
長々と書いてしまったが、「あたしバカだから~」とか、「オレは頭悪いから~」とかを、努力をしないための言い訳に使ってほしくないのである。
「勉強したくないから~」ならよい。したくないものはしたくないよな。







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2013年1月30日水曜日

中学生へ


現在、大学受験生が今、最後の、本当に最後の追い込みに入っている。
そんな中でなぜ「中学生へ」なんていうメッセージを残したくなったかというと、ある高3が下級生に対し、「ホント、勉強しときなよ!絶対に後悔するから!!」と叫んでいたからである。
講師の単なる煽りとは、言葉の重みがまるで違う。

個別塾であるのに座席からパーテーション(しきり)を取り払ってからというもの、だれもが見知りとなり、会話が自然に増え、なんだか塾が部活のようになってしまった。
部長役の高3もおり、授業後にはゴミの後片付けまで高3たちがやってくれている。
次世代の高2も、順調とは言えないまでも受験色に染まりつつある。
中学生は高3がいると張り詰めた空気を察知してたいへんおとなしく、わずかな私語も慎んでいるが、いないと実にのびのびとしている。
このあたりはまるで部活の風景のよう。
そう、まるで「勉強部」なのだ。

で、真面目な話をすると、私も副室Kも、物事を逆算して考える癖がある。
「高3のときにはこういう状態になるのが理想だ。だから今はこれが大切だ」というように。
そんなの当たり前じゃないか! という声があちらこちらから聞こえてきそうなので、もう少しだけ詳しく。


まず、算数数学について。
塾の見解として、大学受験においては、数学は地歴公民(社会)より絶対的に有利な科目であるといえる(大学の私立文系学部入試の多くは数学or社会の選択)。
暗記量が少なく、概して言えばライバルも少ない。
特に私立文系受験なら数学を選択“できれば”ものすごく有利になる。”できれば”だ。
国公立受験なら数学は必須科目だ。
では、数学が“できる”状態とはどのような状態か。
それは、
代数では「等式の性質を駆使し、数式を自在に操れる状態」
幾何では「円・相似・三平方の定理を自在に操れる状態」
解析では「座標の概念を理解し、グラフ⇔式を自在に操れる状態」
だ。
つまり、計算は中1・中2、図形と関数は中3が肝心、ということになる。
数学は小学校から脈々と続く科目なので中学生ではすでに差が開いてしまっていると思われがちな科目であるが、実は中3の春までなら取り返しがつく。
むしろ、抽象的思考力が発達しきっていない中1で詰め込むよりは、中2以降にガンガンやったほうが伸びる場合もある。
小学校の内容に不出来があれば、復習すればよいだけである。
じゃあ小学校の算数はあまり大切じゃないの? と言われれば、実はそうかもしれない。
小学生で算数が苦手である場合、抽象的思考力が未熟である場合が多い気がする。
つまり、脳が幼いのである。
そんな段階に難しい算数を詰め込めば、算数嫌いになりかねない。
以前にもブログに書いたが、小学生は式など立てる必要はないのである。
答えさえ出せればよい。立式は中学生でやる。
で、中1・中2で等式の性質をフル活用した計算が出来るようになれば、中3の計算は余裕。
中3では図形と関数をリキ入れてやる。
文科省カリキュラムでは中3と数ⅠAはほとんど同じことをやっているので、中3で余裕なら数ⅠAは余裕。
数ⅠAが余裕なら、努力すれば数ⅡBも可能(これは余裕とは言わない)。
数ⅡBを克服したら時間次第で数ⅢCも可能。
こんな具合だ。
だから、逆算すれば、計算は中1・中2で等式の性質に。関数・図形は中3でリキを入れるのが正しい。
ただし、やはり難問には思考力が必要であり、小学生のうちから思考回路を身につけておくと有利なことは間違いない。


次いで、国語(現代文)について
国語なんかは小学校に上がる以前から脈々と続いている科目なので、根が深いと思われがちである。
付け焼刃の学習で成績が上がるとは思えない科目だが、私は「国語はテクニックである」を提唱しているので、国語は必ずしも積み上げの科目でないことをお伝えしてきたし、むしろ国語は数学に近いと言ってきた。
ただ、「国語はテクニックである」と言い切るためには大事な前提がある。
これもお伝えしてきたが、それは漢字である。
漢字が書けない、漢字の意味がわからない、ではテクニックの効果も半減してしまうのだ。
そして今回、国語についてもう一つ付け加えさせていただく。
テクニックの効果を倍増させるもの、それは「経験値」だ。
「経験値」は、いろいろなことを知ることで、またいろいろなことを考えることで上がる。
「経験値」が上がると、テクニックを使わずに解ける問題が増えたり、出題された文章の内容を読み取れることが多くなるのだ。
では、どのようにしたら経験値が上がるのか。
それには、たくさんコミュニケーションをとること、たくさん読書をすることだ。
まず、国語は「問いに答える」科目なので、相手と正しく応答できることが求められるのだ。
コミュニケーションの訓練相手は、コミュニケーション能力の高い相手が望ましい。
小さな子どもは身近な人の真似をする傾向があるので(特に必ず親の真似をする)、身近な人のコミュニケーション能力が高ければ、自然と子どもも高くなる。
大きくなってからは、子どもは学校や課外での活動でコミュニケーションの訓練をするようになるから、できるだけ人付き合いをしたほうがよさそうだ。
読書については、勘違いなさっている方も多いが、なにも活字のみの本でなくともよい。
マンガでもネットでも雑誌でもいい。
とにかく子どもが興味を持ったものはすべて与えるのが正解である。
直木賞作家で日本ペンクラブ会長の浅田次郎氏は、若い頃米を買う金で本を買ってしまい、食事にも事欠いたことがあったそうだ。それくらい、本にお金をケチってはならないのだろう。
ただ、読書をしたからといって現代文の偏差値が高くなるわけではないのでご注意を。読書はあくまでも、経験値を積むためのツールの1つに過ぎないのである。
だから、「ウチの子は本が大好きなのに国語が苦手で」という事態もよくあるのだ。
繰り返すが、読書は国語ができるだめの必須要素ではなく、有利になる条件の一部にすぎない。
まとめると、国語は1に漢字、2にテクニック、3に経験値なのだ。
逆算すると、小学生にしろ中学生にしろ、漢字をしっかり練習し、あとは経験を積め、ということになる。
テクニックはいつでも身につけることができるのだから。


英語について
数学は出来ること出来ない子に極端に分かれ、平均点付近の子はむしろ少ないという。
社会は平均点付近の子が最も多く、平均点から離れるほど人数は減っていく。
ところが英語はというと、出来る子が最も多く(満点はさすがに少ないが)、点数が下がるほど人数が減っていくのだ。
(↓参考URL:平成24年度 神奈川県公立高等学校入学者選抜学力検査の結果↓
http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/life/454693_749322_misc.pdf

英語はみんなが重要だと思っていて、みんなが力を注いでいるので、できて当たり前のようになっている。
逆に言えば、できないのは単なる努力不足であり、努力に比例してできるようになるのが英語の特性だろう。
では努力するとして、できるだけ効率のいい努力をしたほうがいいと思う。よね。
最も効率のいい方法は、英語を好きになることだ。
塾で統計を取ったところ、英語の成績が偏差値60を超える子達は、ほぼ全員、高校時に洋楽を好んで聴いている。なんと、ただそれだけだったのだ。
そして英語に対する努力とは、“毎日”勉強し続けることなのだ。
英語の勉強を1日やらないと、3日分の英語を忘れるという。
だから英語は毎日、少しでもいいから勉強しなければならない。
ところが“毎日”となると、案外できないのが人間というものである。
だからこそ、英語を好きにならないと、とても毎日は続けにくいのだ。
もちろん、英語だって高3になってから必死でやれば得意になる可能性はある。
しかし、その暗記量たるや、とてもじゃないが好きでなければ暗記しきれない量なのだ。
(好きなものは自然に覚えられる。好きならそんなに苦労ではない。)
逆算すると、中学で英語を克服できなかった場合、高3時には「英語を捨てる」という選択もしなければならない可能性もじゅうううううぶんにある。
さらに言えば、高2になっても英語に苦手意識がある場合、学校の定期テストでは英語を捨て、さっさと受験英語の学習に切り替えたほうがよい場合も多い。
英語は、「得意にならない限り苦しいだけ」の科目であるとインプットしていただきたい。


とは言うものの、それらが身にしみてわかるのは、多くは高3になってからのようだ。
しかしながら、親御さんや教師が「今勉強しないと後で苦労するよ!」と、先回りして勉強をするよう仕向けても逆効果になる場合も多いのではないだろうか。
子どもは通常、直近の未来しか考えられず、何年も先の苦労など見越すことはできない。
だからこそ、「今、何に最も力を注ぐべきか」を指導者が理解していることは、ものすごく重要なのである。
中1・中2なら計算、中3なら図形、という具合に。
あれも大事、これも大事と全部詰め込んではパンクする子もいるし、勉強も押し付けられるだけの味気ないものになる。
いたずらに目先の点数だけを追うのではなく、大学受験を見据えた指導をすることこそ、子どもはいきいきとするし、子ども自身が「何が大切か」を見極めるようになる。
それこそが弊塾の理想であり、そのために「高校生のための塾です」「中学生が入会されても目標を大学受験とします」と明言している。
中学の勉強はとても大切であるが、単に点数だけ取ることが大切なのではない。
詰め込みで高得点を取っていても高校で行き詰まることも多いという事実も、中学での学習姿勢がいかに大切かという真理を逆説的に示している。
やはり、中学生の間から大学受験を視野に入れながら勉強すべきなのである。


下級生は、上級生が勉強している姿を日々、今、まさに目の当たりにしている。
3になればあれくらい勉強するんだぞと、それが当然なんだの、と思っている。
たとえ兄姉がいても、兄姉は通常は勉強部屋にこもっていたり、外で勉強していたりするから、下の子が兄姉の背中を見ているとは限らない。
ならば、大学受験は自分にはまだ関係のない世界だと思っているかもしれない。
しかし、勉強部はちがう。部活なのだ。
“勉強”という共通した活動があり、“成績の向上”という絶対的なものさしがあり、“受験”という人生を賭けた試合があり、先輩がいて、OBがいて、指導者がいる。
そんな場所だから、高3の背中に数年後の自分を重ねてしまうことは自然なのではないだろうか。

高め合う仲間が集う勉強部  MJ
(俳句にしようとして何のひねりもなし。そして季語もなし)

勉強部の日常風景は、部屋の模様ではなく、子どもの作る空気のスナップだ。
(詩的表現にしようとして意味不明瞭)

そんな塾にしてくれた子どもたちを、誇りに思う。







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2012年12月29日土曜日

勉強法の常識を疑うその7~現代文・国語の常識と真実3


国語(現代文)の締めくくりに、いただいたお言葉を書かせてもらいます。

以前、“勉強法の真実ブログ”を読まれた方からメールで学習相談を受けたことがあった。
その方に、この記事を書くにあたって引用させていただきたい旨と、その後のお子様の様子を伺いたいと思って連絡させていただいたところ、引用は快く許していただけることと、お子様は意欲的に勉強中だとのお返事をいただいた。
たいへん恐縮です。

(メール相談をいただいた方の文章。途中省略があります)
「今まで聞いたこともない、はじめてのことばかりでビックリしています。
ブログの内容を読んでいて、とても共感することが多かったので思い切ってご相談させていただきましたが、知らない娘のことをよく考えて下さり、読んでいて納得することばかりです。本当にありがとうございます。」
(中略)
「娘に先生のメールの内容を伝えたところ、目をキラキラさせて…(中略)
国語のテクニックについては、まったく塾では教えてもらったことはないそうです。
文章の内容説明をしてくだり、『問題の答えは、この部分の内容からになりますね。』という感じのようです。だから、その時は『そうだよな、確かにそうだよな。』と納得して終了。
そんな感じで帰ってくるようです。
でも、また、問題を解くと、なんだか間違っている、どうして国語ができないんだろう?
という繰り返しです。
『テクニックがあるの?』という感じでした。
その後、娘は塾で○○の過去問を2回解いたのですが、小説と論説文の選択問題が全部正解していたり…(中略)、本人なりに、先生からのアドバイスを刺激に、設問や言葉に意識をしながら問題を解いていったそうです。すごく喜んでいました。
国語の成績が安定するかどうか、まだ、わかりませんが
「全然ダメじゃないんだ。」と前向きになっていました。」


この方とのメールで一番嬉しかった言葉は、何と言っても最後の1行だ。
一人の子どもが、「全然ダメじゃないんだ」と前向きになった。それだけでいい。私がほんの少し役に立った。嬉しい。

現代文のテクニックを身に付けるメリットは、点数を上げるためだけではないのだ。
テクニックを身に付けることによって、苦手だと、できないと思っていた現代文に希望を持つことができ、他の科目に時間的・精神的に良い影響が出るのだ。
ド○ゴン桜でもそう。115時間×300日の勉強を支えるもの。マンガの話だが、もしそれがあるとしたら、それは前向きさ、ひたむきさに他ならない。
その精神を支えるものは、「やればできるようになる。自分にもできる。絶対に合格したい」と思い続けることだ。
そうでなければ、受験は絶対に上手くいかない。ほんの少しでも「どうせ、きっと、第一志望には受からないんだろうな」なんて思っていると、本当に受からない。
そんな受験は、本人の将来にとっても周囲にとっても不幸な受験となる。
逆に、最後まで自分を信じ、精一杯やったのであれば、たとえ結果が×であっても、得るものは必ずある。
ただ、それは全力で頑張ったことのある人にしか味わえない感覚なのだろうなあ。
その感覚を、私はできればすべての受験生に味わってほしいと願っている。
不完全燃焼や後悔で終わらないために。自分に嘘をつかないでいるために。
テクニックを身に付けよう。

おわり






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2012年12月26日水曜日

勉強法の常識を疑うその6~現代文・国語の常識と真実2



ゴン桜より

このブログではド○ゴン桜の話題も多い。
これは、漫画・ドゴン桜が私的に名著であると思うがゆえんであります。
塾でドゴン桜の話をすると、知っている子はドラマで見た(DVDで見たのか?)という子だけであり、マンガで読んだという子はいない。
私は逆にドラマは見ていないが、マンガとは異なる印象を与えるものではないかと想像している。
ドラマって、原作と違うことよくあるしね。

マンガ版ドゴン桜の優れているところは、まず高校生の心理をつかんでいる点だと思う。
次いで、特別講師が実在の人物をモデルにしている点だ。
ところが、ほとんどの子の感想は、「あんなの不可能だ」である。
「ギャグでしょ」と言う子もいる。
誰も登場人物の心理には注目していない。触れてもいない。
ドラマが原作と異なっているのか、私の感想とはえらい違いなので、今度マンガを塾に持っていて読ませようかとも思う。

さて、マンガ版においてもやはりテクニック面や東大合格という結果が強調されている感もあるが、ベテラン講師にとってはそれらはとくに目新しいものではないだろう。参考になることもあるが。
で、先の2点に加え、個人的なドゴン桜の特筆すべき点は、
1、きれいごとが排除されている点
2、長時間にわたる勉強時間を確保できている点
2点だ。
きれいごとが排除されれば「真実」だけが残るから、このブログの主旨と合致している。
勉強時間の確保も、本当にうらやましい。
ゴン桜の登場人物は115時間、年間300日を特別講師にべったりへばりつかれながら勉強している。
想像してほしい。並みのモチベーションであれば頭がおかしくなるだろう。
それだけやれれば1年で東大合格も可能かもしれないと思えてしまう。

そんなマンガだから、特別講師のセリフには信憑性がある。
実在の人物がモデルなのだ。だから引用したくなる。
そんな登場人物に、芥山という先生がいる。国語の特別講師だ。
その先生と私の意見が近いため、リスクを犯しても引用させていただく。

32人と同僚の国語教師の前で、芥山先生は断言する。
「出題される問題文は非常に難しい。そして時間の割に文章が長い。」
「大人が読んでも苦労する文章です。高校生に読んでパッとわかれと言うのが無理です。」
「ところが真面目な人はそうは思わない。繰り返し読んで内容を深く理解してから問題を解こうとする。」
「テスト時間内に内容を理解しようとあがいても解答には近づきません。」

そう前置きした上で、次のように告げる。
「問題を作る人の召し使いになれ。」
「自分では何も考えてはいけません。」

これを聞いた同僚の国語教師は思う。
「ひどい。いくらなんでもひどすぎます、芥山先生…」

芥山先生はテクニックと客観性を重視する人であります。
しかし人間の心理・真理をつくような言葉を次々と投げかける人でもあります。
決して、受験が終わればそれまでよ、という類のテクニックを教える人ではない。

このように、ドゴン桜をギャグだと思わずに、真剣に、書いてあることのすべてを吸収しようと思って読めば、バイブルになるようなマンガだと思う。
でもひょっとしたら、何かを犠牲にしてでも本気で何かを手に入れようとしている人でないと、心に響かないのかもしれない。

つづく






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2012年12月23日日曜日

勉強法の常識を疑うその5~現代文・国語の常識と真実1


現代文の攻略法については、ネットを見ても本を読んでも「読解力」に焦点が絞られているようだ。
ところが私は、前々から提言しているのだが、どうしてもそうは思えない。

私は現役の受験生時代から、テキストの本文解説や本文要約などは読み飛ばしていた。
ひたすら、選択肢の消去や抜き出し箇所の発見の方法を探求していた。
塾を開いてからもその方針は変わっていない。
それが生徒のためになっているという自信も、データも私は持っている。
問題文なんか理解しなくても、偏差値30台の生徒が、上智の現代文であっという間に7割を取れるようになった。
すべてはテクニックである。
そして、現代文のテクニックは非常に少なく、10日もあれば身に付けることが可能だ。

ところが、テクニックのみで解くというと、「読解力が身につかないじゃないか」と批判する人が必ずおられる。
たしかにその通りかもしれないが、読解力はテクニックを身につけたあとで、余裕があれば磨けばいいのでは?
普通の生徒なら、テクニックを身に付けたら他の科目、つまり英語や数学や理社をやりたがるけどね。
そう考えると、「読解力」を身に付けさせたいなんて言うこと自体、国語を教える側のエゴではないか。もしそうなら反省してもらいたい。
生徒が読解力を望んでいるならいい。
しかし、生徒が点数アップであり偏差値アップであり、その先にある合格を望んでいるならば、読解力は押し付けの勉強になってしまう。
現代文より配点の高い科目を、点数的に伸びしろがある科目を、より勉強したいと思うのは人情だ。
生徒のためを思うなら、「読解力を磨くくらいなら先に英数理社をやれ」というべきではないのだろうか。人間として。

お金を払って通ってくれている生徒がいる以上、ここで私の持つテクニックをすべて公開することはできない。
しかし、読解力を身に付けようとして現代文で苦しむのはもうやめてほしい。
そのためのヒントはちりばめたいと思う。

さしあたって、弊塾の元生徒であり現アシスタント講師、慶應大学経済学部2011年度合格イケメンの言葉を引用させていただく。

「問題文なんて数式にしか見えなくなった。そうなったとき、偏差値が70を超えて安定した。」

だって。


つづく






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